たとえば「塩」という短い話。新築の家に越して3か月ほどたったころ、家に帰ると部屋中に塩がまかれている。理由を聞いても両親は何も教えてくれない。やがて数日が過ぎ母親が「おさまりましたねえ」と一言。それに父親が「ああ」と答え、話は唐突に終わる。そこには、読み手を恐怖に陥れようといった作為はみじんも感じられない。しかし、それゆえに圧倒的なリアリティーが行間から漂ってくる。ドアの下のすきまからのぞく足、玄関にたたずむ真っ赤な人影、つぶれたホテルでひと部屋だけともる明かり…。99の奇怪な話は、日常と非日常の境界をあやふやにする異界への扉だ。
本書のタイトルは、世の中の怪談・奇談を1000あまりも記録した根岸鎮衛(やすもり)の著作『耳袋』に由来する。江戸南町奉行を17年つとめた根岸の『耳袋』は、同時に庶民の風俗を写し取ったものでもあった。「百物語が完成すると怪異が起こる」というのは有名な話であるが、本書にも「一晩で完読すれば怪異が訪れる」といった噂がまことしやかにささやかれている。(中島正敏)