人が信じるもの
★★★★☆
関西大震災を題材として,人が生きてゆく上での心の支えや原動力,あるいは常識だとか人生観などというものが,いかに脆くて儚い虚構であり夢幻であるかということが描かれてた作品だと感じた。
現実というのは虚構とは似て非なるものであり,時として人を大いに裏切る。 たとえば大震災というまったく予期できない出来事が現実として起こり,それまで人々が信じきっていた心の拠り所や,あるいは日常という幻のようなものが根本から徹底的に破壊されたとき,人が直面するものは一体何なのか,ということを筆者は考えたかったのではなかろうか。
『super-frog saves tokyo』 という物語で,金融機関で働く主人公のもとに突然現れた大きなカエルが,東京の地下に潜む巨大なミミズを 『退治する,退治しなくてはならない』 と言う。 それはカエルにしか出来ない仕事であり,それで東京を救うのだ,と信じて疑わない。 そしてある日,巨大ミミズとの死闘を演じてきたカエルは,力尽きるも自分が世を救ったのだと信じて,満足げに死んで,朽ちてゆく。
カエルにとって巨大ミミズとの闘いというのは,カエルの心の中心にある巨大な虚構であり,同時に人間一人一人が信じきっている 『真実』 というものを表している。 それは人の生きがいでもあり,本人にとっての常識であり,あるいは日常と呼ぶべきものでもあり,あるいは仕事であったり,子供であったり。 人の心はその虚構によって支配され,また虚構のために生きて働いて,それに命をかけて,力尽き,最後は死んで土に帰る。
つまり,このカエルというのは主人公自身であり,また人間の誰もがこのカエルなのである。
村上春樹の作品は,一見チンプンカンプンで意味不明なストーリーなようでいて,そこに秘められた比喩や暗示を見出すと,とたんに目から鱗が落ちたように一貫したテーマが見えてくる。 浅いようでいて深く,深いようでいて浅いような,そういう部分が村上作品の魅力なんじゃないかと私は思っている。
また,英訳された村上春樹の作品というのは,まるで最初から英語で書かれたみたいなリズムがあって実に読みやすい。 そういう日本語の文章は,なかなかそう簡単に書けるもんじゃないと思う。
暗雲を背に輝く生
★★★★★
大地震直後の世に材を求めた短編小説集。六編いずれも珠玉だ。
1995年、阪神北淡地方を襲った震災の恐ろしさは、いうまでもない。関西出身の著者も、かなりの衝撃を受けたことだろう。全編に、死と喪失、破壊と暴力への恐れと不安がちりばめられ、未来の暗さをほのめかす。だがそれだけで終わらないのがよいところ。黒雲が立ちこめるような背景に描かれる生は、みな哀しいが、まわりが暗いだけに、よりきらきらとして見える。目をこらせば、輝く希望が見えてくる。世界はかくもはかなく美しいと教えてくれる作品だ。だが震災当時はそれどころではなかったはず。苦悩を昇華し、ここまでにするには、さぞ努力がいったことと思う。
特に最後の二編がよい。かえるやくまなど動物が出てくると筆致がさえる気がするが、どうだろう。
英文はやさしく読みやすいが、深遠なことをくだいた言葉であらわすのがもともと著者の持ち味だ。原文同様研ぎすまされているだけに、流し読みには向いていない。軽い読み物を求めるなら、ほかの作家をあたるべきだろう。
暗雲を背に輝く生
★★★★★
大地震直後の世に材を求めた短編小説集。六編いずれも珠玉だ。
1995年、阪神北淡地方を襲った震災の恐ろしさは、いうまでもない。関西出身の著者も、かなりの衝撃を受けたことだろう。全編に、死と喪失、破壊と暴力への恐れと不安がちりばめられ、未来の暗さをほのめかす。だがそれだけで終わらないのがよいところ。黒雲が立ちこめるような背景に描かれる生は、みな哀しいが、まわりが暗いだけに、よりきらきらとして見える。目をこらせば、輝く希望が見えてくる。世界はかくもはかなく美しいと教えてくれる作品だ。だが震災当時はそれどころではなかったはず。苦悩を昇華し、ここまでにするには、さぞ努力がいったことと思う。
特に最後の二編がよい。かえるやくまなど動物が出てくると筆致がさえる気がするが、どうだろう。
英文はやさしく読みやすいが、深遠なことをくだいた言葉であらわすのがもともと著者の持ち味だ。原文同様研ぎすまされているだけに、流し読みには向いていない。軽い読み物を求めるなら、ほかの作家をあたるべきだろう。
文化の翻訳は難しい
★★★★★
よくいわれるように、村上春樹氏の文章自体が英語に翻訳しやすいのは確かだろう。この短編集の英訳でも、センテンスのリズムや息遣いまでもが日本文と違和感がないように感じられる。それは、ひとつにはジェイ・ルービン氏の腕前であることはもちろんだが、同時に、村上春樹氏自身の文体が翻訳される英語の文をすでに予感しているからではないかという気さえする。
ただ、多少詳しく見てみると、やはり文化に深く関わる部分の翻訳は難しい。たとえば、当然だが、人名の漢字のもつ意味合いはまったく伝わらない。「蜂蜜パイ」の小夜子もその娘の沙羅も、ただSayokoとSala。(沙羅の方をSaraとしなかったのは、英語のセアラと混同されないようにか)
また、地名のもつ文化的背景も伝わらない。訳者は、「UFOが釧路に降りる」で、〈秋葉原〉には電気街と分かるように説明を加えているし、「蜂蜜パイ」では、「小夜子は浅草の生まれで」という日本語をわざわざ「小夜子は江戸っ子だった。商人階級が何世紀にもわたって暮らしてきた古い町の生まれだった」とパラフレーズして、逆に浅草という地名を省略したりしている。しかし、どうしたって、〈釧路〉という地名のもつ演歌的「最果て」のイメージや、「水戸の老舗の菓子店」に対して日本人がもつ漠たる心象は伝えようがない。
そのほか、「神の子どもたちはみな踊る」における新興宗教の神「お方さま」や、性交するの意味の「まぐわう」の英訳、「アイロンのある風景」の中で啓介が腹が痛くなったときにいう「うんこすりゃ直ると思うんだけど」の訳し方など、いくつかきちんと日米(英)の文化比較を必要とする箇所が出てくる。また、日本語の解釈の誤りからくる誤訳が2箇所ほど見られる。とくに、「蜂蜜パイ」の最後、つまり、この短編集の最後の文の英訳はいささか問題であろう。
ともあれ、このように英語訳が日本語の原文とそれほどズレがなく読めるのは、いかにも村上文学らしい。ひょっとすると、私たちが、裏にある日本語を意識しながら読むせいもあるかもしれないけれど。
面白いし、英語も読みやすい
★★★★★
村上春樹は海外で非常に人気がある。その理由は、この本を読んでみるとよくわかる。村上春樹の文体は、英語に訳されても、大切な部分が残るように思う。
日本人作家の中でも、漱石や鴎外などは英語に訳すると崩れてしまう。三島や川端は、翻訳者に恵まれたことにもよるが、魅力のある文体の英語に訳されている。
しかし、村上春樹の場合は、もともと欧米の文体に親和性があるのではないかと思う。原文と英語の訳文を比べてみるのも面白いし、外国の作家のつもりで読んでも楽しい。
実は私は、ある文学好きのアメリカ人に、帰りの機内用の読書に良いだろうと村上春樹の英語訳をもらい、それから村上春樹を読み始めた。
英語の勉強のために読むのもいいだろう。