鮮やかに風のように、吹き抜けた、当代一流の思想家。
★★★★★
わが思想の迷路に踏み込む切っ掛けとなった、今は亡き独自の思想家にして、
優れた言語学者・記号学者、
その名は丸山圭三郎。
この書こそ、1980年代・90年代を代表する名著だと思っている。
コトバ=波の比喩は美しく、忘れがたい。
幸運にも、謦咳に接したことが二度ある。
一度は、岩波CSでの『一般言語学講義』レクチャー、
二度目は中央大講堂(お茶の水)での、講演。
やはり、今は亡き思想家、丸山氏の盟友・広松渉氏とのダブル講演だった。
と、こう書いていても、丸山氏の、あの独特な柔かな語り口、声音と微笑と共に、初めてこの書と出遭った時の興奮が鮮やかに甦ってくる。
思想書が飛ぶように売れた時代の、 間違いなくスターの一人だった。
その後癌を患っていると聞き、間もなく没した。
(その生涯に一体どんなドラマがあったのか。お弟子筋の俊秀の方々は、因習を超え、書くべき責務があると思うのだが…)
あの時、会場を埋め尽くしていた人達の熱気と、歴史に対する危機意識は忘れられない。
歴史の重みを感じる。
この機会にもう一度精読したい。
座右の書とすべく、密かに文庫化されるのを期待しているのだが。
ソシュールの誤読はどう生れたか
★★★★★
現代思想を語る上で絶対無視できない影響力を持ちながら、その思想がはたして精確に伝わっているのか、という疑問に答えている書。ソシュール自身の思想は言語学の領域を超越して哲学、人類学等の人文科学は勿論のこと、大脳生理学などの理工系にも影響を与えている。それほどのラディカルさを持ちながらなぜ…と苛立つ著者の気持ちがよく分かる。丸山氏自身、言語学の領域を大きく逸脱した生前の活動もさることながら、日本は勿論、世界にも影響を与えた書。この本を読んで、人間がテクストに縛られた存在ということがまざまざとわかる名書。
現代思想の源流
★★★★★
現代思想のさまざまな場面において、甚大な影響を与え続けたソシュール言語学。生前著作を残さなかったソシュールの思想は、その壮大さにおいて、従来の言語学の圏域をはるかに超越していた。そのため、多くの誤解にまみれてきた。『一般言語学講義』をみれば、彼の薫陶を受けた弟子たちですら、彼の思想の全貌を掴みえなかったことを示している。そのソシュールの全貌を、明晰に再構築する。丸山氏は、今はなきソシュール研究の権威。氏のソシュール解釈は、世界的に衝撃をもたらした。日本現代思想の基本書籍として、必読。
幕開け
★★★★☆
私が現代思想に足を踏み入れるときに初めて読んだ本です。ですから、今でも現代「思想」より言語学に興味があります。丸山氏の精緻なソシュール研究はフランスではあまり知られていないようですが、立川氏らが一部分フランス語に翻訳しているようです。しかし、エーコが有名になったからにはパースにも注目がいくでしょう。ソシュールとパース。答えのでない言語学と、答えが出る言語学。これからの主流はどちらでしょう。ただ、ソシュールに重きを置きすぎたり、彼の言語学を誤って受け継いだりした思想家が多いと思います。記号はその概念を自身の中に持っているのではなく、他の記号で説明されるのです。そしてその記号もまた他の記号で説明されます。真珠のネックレスのような記号の連鎖は、シーニュの中にシニフィアンとシニフィエがあると思いこんでしまった人々に記号の単立という概念を埋め込んでしまったのではないでしょうか。
担当は何をやってたんだ!
★★★★☆
著者は優れた思想家でありソシュール理論のよき理解者であった。そのため本文のなかではソシュールへの誤読を痛烈に批判している。ソシュールが批判したのは決定論的な言語および科学研究に対するものであり、あらたな科学研究方法を提示している。著者が繰り返し主張するのはシーニュとはシニフィアンとシニフィエが不可分なものでありそれを分けて研究してしまうと言語学研究は意味を失ったものとなるということである。このように主張が繰り返しなされるため伝わってくるものは伝わってくるが意味不明となっている箇所やわかりづらいもいくつかある。これは著者への批判というより担当がなにやってんだという話である。せっかく著者がソシュールの誤解を正してるのにこれでまた誤解されたらどうするんだ!