平成のメディア論としての名著です
★★★★★
劇場では、マイケル・ムーアや動物ものを除けば、渋谷の小さな映画館で『ゆきゆきて、神軍』と『ファザーレス』をリアルタイムで観ただけで、あとはテレビの深夜ドキュメンタリーを見ているていうどのファンですが、ドキュメンタリーという媒体(メディア)とビジネスモデルとしての苦悩が伝わってくる良書です。
黒澤明だって大島渚だって映画を何年も撮れずに、国際的な資金調達などにより復活したりもしているが、ドキュメンタリーはどうやら文学に近いような存在でありながら、テレビなど、制限の多い流通か世界各地の映画祭という発表の場など、異常に限られているとしか思えない。インターネット上での配信など、インフラが整えば改善されることもあるのでしょうが、制作会社、出資者、プロデューサー、配給会社、上映館(上映会、映画祭、上映の機会)がちぐはぐのまま、深夜の民放ドキュメンタリーは、放送回数も質も制作費も寂しくなる一方である現実は、ドキュメンタリー・ファンである自分の苦悩でもある。
的外れな指摘かもしれないが、ドキュメンタリー作家もしくは代理人が英語で交渉できるようになれば、少しは未来が明るくなるのでは、とも思います。ボツになった「包茎」ドキュメントだって、欧米の資金で欧米での公開を前提にしていたら、制作できただろうに、と思えてしかたがありません。どんな映像作品だって、外国語字幕を挿入するなり、ナレーションを吹き替えで入れ替える配慮さえ最初からしておけば、外国での公開は、意外とラクだったりするものです。
ドキュメンタリーは嘘ですか?
★★★★☆
「ドキュメンタリーは事実の客観的記録である−」という論に反対し、すべての
映像は、撮る側の主観や作為から逃れ得ず、むしろそれに自覚的で積極的に
向き合うことで、豊かな表現を観る側に突き付けることができる、という信念に
基づき森達也氏が説くドキュメンタリー論です。
その根拠は、量子力学を紐解くまでもなく、対象に撮影という観測する行為で
日常に干渉し、対象が大きな影響を受けるからであり、それ以外にも撮る側の
主観による編集を含める様々な因子が複雑に絡み合うことで客観的ではなくなること
にもよると著者は主張します。
また、TVを中心とするメディアが組織であるが故に利益の獲得を至上とする
商業主義と、所属する個の記者やディレクターや編集者たちのそれぞれの志との
乖離が生む、割り切れず無駄とも思える葛藤が喪失されつつある、と本書では
警告を発します。実はその葛藤や煩悶が失われていくことで、物事は単純な正邪の
二元化に帰結されパッケージ化されていると。
次なる断罪する悪を探して彷徨い、一部の情報からその片鱗を見つけるやイメージを
固定し、一斉に叩くメディアに一石を投じた本稿は非常に有用な視点だと
思いますが、結局のところ、メディアを邪とした二元論に対しては本書の所どころに
著者の逃げの姿勢も見え隠れし、それらの葛藤もすべて嘘などと発言してしまったのは、
やや残念なところです。
不快と不可解な面白さと恐ろしさ
★★☆☆☆
本書を読むと著者がとても頭のいい人であり、文章も巧みであることにすぐ気づく。
それは彼が数多く対談する学者たちには決してみられないものでもある。
著者自身が述べているように論理的整合性は皆無だ。論理と述べて、すぐルールなどないという。
結局、作品を作るに当って学者達の依拠するような論理などなく、主観しかないのだということだ。
ただ彼の伝える面白さの基準というものは60年代だ。
よい意味でも悪い意味でも。米や政治や警察は絶対悪だという思い。
その思いに自身が気づくには現代社会のスピードはあまりにも速すぎるのだろうか。
81ページに「倫理や道義などの価値の体系からはドキュメンタリーは解放されねばならない」とある。
彼には倫理(エシックス)はないが強烈な道徳(モラリティ)が存在する。
ただそれではオウム信者暴行のシーンを後だしした論理的理由にも道義的理由にもならないが。
89ページでワインズマン批判?に関する文脈で加担という言葉が扱われているのが面白い。
加担と介在は違うのだ。
6章を読むとその頭のよさがよくわかる。
彼は、善人にも聖人や偽善者や単なる馬鹿、ごますりなど多数のものがあることを
知っている。
この点多くの人々が馬鹿にしか見えないだろう。ただし悪は一つしか見えない。
ただこの問題は世界各国の政治思想家が頭を悩ませた問題でもあり一義的に彼を批
判できないが。
100ページでメディアが劣悪化していると言い、
猟奇事件の不可解さや混迷について述べたすぐあとで、意識が変化しただけとのたまう。
謝罪とは真意からの謝罪だということを知っていながら他者への想像力の話になる。
森は面白い。ヒトラーやチャップリンと同じように人間的な面白さがある。
ドキュメンタリーを作る者として。
★★★★☆
この本は、全てのドキュメンタリーを作る(正確には作ってると思ってる)人に、ぜひ一度読んでもらいたい。
私は現在大学生だが、高校のときからドキュメンタリー番組を作っている。そして著者の森と同じ思考経路を、小規模ではあるが辿ってきた。もっとも私の場合、彼がこの本で述べていることを感覚では掴めても、形にはできなかった。言葉にならなかったのだ。
だから、スゴイと思う。
「ドキュメンタリーは嘘をつく」
当たり前だ。私が、私の考え・主観を基に、番組を構成・編集しているのだから。私は、私自身や人の心の中にある真実(主観)を描くことは出来ても、事実を見出すことなんて出来やしない。私は全知全能の神じゃないんだ。
確かに、この本には彼自身の自慢や他者への不満・非難が多分に含まれている。というかてんこ盛りだ。(私に言わせれば、あらゆる"創作"者なんてそんなもんなんじゃないかと思うのだが)
だが、肝心なのはそこではない。理解すべきは、今のマスメディアの現状と、我々が考えることを止めてはならないということだ。
☆4つの理由は、彼がドキュメンタリーを映像だけに限定したことと、"分かりやすさ"を放棄するとも取れる記述をしていること。この2つはラジオドキュメントを作り、ドキュメントをエンターテイメントの一つと考える私には我慢ならないことなので。
結局、森氏の思想は・・・
★☆☆☆☆
個にこだわるわけですね?この著で随所に見られる組織批判は頷ける部分もあるにはあるが、要点は「マスメディアはまず疑う」と言う事ぐらいか?個は「人」だ、人である以上この世に生を受けたその瞬間から目で何かを見、耳から何かを聞いている。何かを意識している「自分」に気づく筈。人には必ず「自我」が形成される時期がある。イスラム圏に生を受ければ、キリスト圏に生を受ければ自然にそのアイデンティティーが備わるように。個は重要しすぎてはいけないものだ。自分の存在また生活が、間接的ではあるにせよ何処かの個を抑圧してもいる。問題は「個」の中身があまりにも公共心なき個なら問題視せざるおえない。「学ぶ(まなぶ)」は以前は「マネぶ」と発音していた。養老氏が「バカの壁」にて「自分の皮膚・臓器に親の物を移植しても拒否するから、己の肉体は自分と言える。しかし、各々の脳に記憶される知識は自らが生み出したのでわなく歴史から授かった物でしかない」。授かった知識でいくら自分らしくと考えても自問自答の渦から逃れる事など出来ない。目の前の批判のみ、カメラを向けられた人はカメラを認識した時点で意識せざるおえない。森氏の著はもう買いません。