「長編小説」と銘打たれた芥川へのオマージュ
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本書は、先頃河出文庫より出た『円朝』に続き、小島政二郎の文庫本復刊第2弾といったところだろうか。『円朝』に好印象を持ち、また同レビューで触れさせていただいた某古書関連ブログにも紹介されていたので即購入。
著者は芥川とは直接の知己だっただけに、興味深い逸話がいくつも語られる。例えば、第8章で触れられている芥川の英語の速読(多読)能力についての話。芥川は英語の原書を1日に1200頁以上も読めたという。そしてただ速く読んだだけではなく、ちゃんとした批評もできたらしい。また、芥川は3、4人の知人たちと話をしながらでも本を読むことができたらしい。(この逸話を読み、イギリスの作家D.H.ロレンスは友人たちと雑談しながらでも小説の原稿を書くことができたという話を思い出した)このような凄まじい読書量から得られた浩瀚な知識や幼少時より身につけた漢文の素養があったわけだから、芥川が作家になったのは必然であったといえる。
芥川は作家になる資質のすべてを持っていたとひとまづ言えるのだが、小島政二郎にはそうは思えなかったようだ。いい文章を書こうとする「物語作家」でしかなかった芥川は、ついには「小説家」になりえなかったと著者は無念さをこらえながら述べる。
小説は本質で勝負すべきものではないか。どうしてその大事な本質を文章で化粧して隠してしまうのか。(本書126頁)
本書において、このような言辞が何回となく繰り返される。美しく、上手い文章が書けること、そしてたくさんの言葉を知っていることは必ずしも作家にとって必要な資質ではないのかもしれない。芥川の言語的天才が自身を「小説家」になるのを妨げた。著者の主張はこの一点に尽きるだろう。
とはいえ、これらの言葉は芥川への批判と言うよりも、芥川が本来の能力を出し切ることができなかったことへの無念さとして綴られる。著者にとっては、才能にあふれた芥川は雲の上の人であったことはまちがいない。この作品で「芥川龍之介」という一人の作家の人生を著者みずからが「生活」してみせることで著者なりの敬意を払っているように思える。そしてそのような意味で、著者は本書にあえて「長編小説」と付した、と私は考える。
小島政二郎には、同じ芥川を論じた『眼中の人』(岩波文庫:現在絶版?)という作品もあり、未読なので機会があればこちらも読んでみたい。