「目じるし」はあると思う
★★★★☆
当時の報道は多くを聞き流していた記憶がある。サリン事件のかなり前から危険な団体であったオウムを面白がって出演させていたことに対する反省がなかったし、TBSにいたっては犯罪に加担していたのだ。視聴率にしか興味がないTVに、まっとうな報道ができるはずもない。だいたい「麻原彰晃」というのはカリスマ性を持たせるための仲間内の偽名なのだから、報道上は「松本智津夫」とすべきだろう。
週刊誌や本もしかり。読むに値するものはほとんどないと思っていたし、読む気も起らなかったのだが、十分に時間が経ち、かつ、村上春樹が取りまとめたものであればと手にしてみた。
この本は事件の姿をかなり正確に捉えている。テレビの映像はショッキングであったけれど、どの局も画一的だったのに対し、この本は被害者の目が捉えた主観的事実を集めることにより、客観的な事実を映し出しているし、被害者や遺族の心境も垣間見ることもできる。
やはり、被害者ご本人の心境は複雑だ。精神的なショック、肉体的なダメージ。特に記憶力の低下などは、医者が原因をサリンに特定しないため複雑だ。強い憎しみを持つ一方で、記憶の中から消去りたいとする気持ちも痛いほど伝わってくる。そして、遺族の方は、ただただ、深い悲しみを抱えている。
もっとも、あとがきの「目じるしのない悪夢」は腑に落ちない箇所がひとつある。「一般市民の論理とシステムとオウムの論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像」との分析だ。村上春樹の言わんとしていることを理解できないからではないし、オウムに対する嫌悪から「合わせ鏡論」を否定しているわけでもない。
一般的にも自我を何らかのシステムに差出すことはあるかもしれないが、そのシステムが「狂気」を要求してきた時には(オウムの信者とは違った)対応ができるはずだし、万が一、対応できなかったとしたら、それはオウムほど異質な「狂気」ではないのだ。私たちがオウムから目を逸らしていたのは「奴らが私たち自身の歪められた像を身にまとい、可能性をこちらに突き付けてくるから」ではない。しいて言えば、奴らの姿が可能性が全くないレベルに歪んでいて滑稽で醜いからだ。
心理学的な禅問答をする気はないが、オウムを「現代社会の合わせ鏡」と論ずるのは、少なくとも被害者を対象としたインタビュー集にはそぐわない。
村上春樹,夏目漱石。本当に人の話を聞くということ。
★★★★★
夏目漱石の「硝子戸の中」にこんな挿話があります。ある女性が漱石を訪ねてきて身の上を話す,とても悲惨な境遇の話。最初女性はそれを小説に書いて欲しいとも言うが,やがてやはり書かないで欲しいと言いだし,漱石もそう約束する,だから読者には女性の人生のことは何一つ明かされない。しかし漱石は自分がその話をどのように聞いていたかを淡々と書く。死んだ方がいいのでしょうか?などという話題も見え隠れする。最後に女性は夜遅く見送りに出た漱石に「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と言う。以下引用。
「『もったいない訳がありません。同じ人間です』と私は答えた。次の曲り角へ来たとき女は『先生に送っていただくのは光栄でございます』とまた云った。私は『本当に光栄と思いますか』と真面目(まじめ)に尋ねた。女は簡単に『思います』とはっきり答えた。私は『そんなら死なずに生きていらっしゃい』と云った。」
・・・・「アンダーグラウンド」を読んでいて,私はこの部分を思い出したのです。
人の話を本当に聞くことは難しい。村上春樹は地下鉄サリン事件の被害者に話を聞いて歩いたわけだが,別の意味ではそれは,村上春樹という人間がごく普通の人々に会って,その「語り」に耳をひたすら傾けた記録なのだと思う。そういう意味では,これは著者には不本意な表現かもしれないが,誰もがそれぞれ内部に持っている「物語」を一人の稀有な人物が形にしたものだと思う。それがこの本ではサリン事件の被害者達だった。
私は仕事柄いろいろな人の話に耳を傾けることが多い時期があったが,このように「聞く」ことができたことは残念ながら無かった気がする。
読んでいると,不思議と気持ちが落ち着いてくる。
文学というものもおそろしいものですね。
貴重な、生還した人々の証言
★★★★☆
地下鉄サリン事件に遭遇した人々のインタビュー集。すべてモノローグ形式で、時おり著者の質問が挟まる形式。
それぞれ、その車両に乗るまでの経緯を話す前に、仕事や日常、簡単な生い立ちが語られる構成。最初は、なぜこんな箇所があるのだろう−「はじめに」にその理由は書いてあるものの−と不思議だった。ただ、たくさんの人の証言を読み進めるうちに、その人の人間性を浮かび上がらせる役割を持っていることがわかり、言葉は不謹慎かもしれないけれど、親しみを持って読むことができた。
被害の大小こそあれ、人々の貴重な証言。共通しているのは:
・何が起こったかよくわからないけれど、最初は「そんな大変なことではないと思っていた」という印象
・事件発生時の記憶の詳細さ
・自分の体調がおかしくなっても、普段通り出社した(または、しようとした)
この事件があって、東京の地下鉄駅構内にゴミ箱は未だにほとんどない。当事者でなければ、事件の記憶は風化してしまう。もし自分がその場にいたらどうしていただろうか、と読みながらいろいろ考えることができた。読んでおいてよかったと思う。
こちら側 vs あちら側
★★★★★
世の中には2種類の人間がいる、とはよく言われる。
「カラマーゾフの兄弟」を読んだことがある人間と、読んだことがない人間、は良く使われるフレーズ。ハルキ・ムラカミは、「ペット・サウンズ」を聴いたことがある人間と、聴いたことがない人間に分ける。さらに、今、「こちら側」の人間と「あちら側」の人間が出てくる。
1995年3月20日の朝、地下鉄サリン事件で被害者となった「こちら側」と、加害者となった「あちら側」のオウム真理教信者。被害者側にも被害者本人という「こちら側」と、被害者をチクる勤務先の上司・同僚という「あちら側」がいるという現実。
「こちら側」の被害者がバタバタと倒れているのにかかわらず、地下鉄出口付近の当時の通産省に勤務する官僚は、手助けをしようともしない「あちら側」の人間という無慈悲さ。
「こちら側」と「あちら側」というパラレルワールドを描き分けるハルキ・ムラカミの小説手法を垣間見ることができるこの現代社会の現実性!
1996年1月から12月までに「こちら側」の被害者に対して行われたインタビューを、「あちら側」の裁判がほぼ終わった15年後に再読すると、まったく感じが変わるこの時間の流れの不可思議さ、風化しつつある記憶の喪失感。
癒えない記憶。
★★★★★
オウム真理教による、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた本。
あの日、大学の卒業式でした。
通学に日比谷線を使っている人も多く、すごく身近で衝撃的な事件でした。
15年経った今読んでも、すごく生々しく感じるし、憤りを強く覚えます。
その場にいた人々の辛さや戸惑い、見た目に表れない被害のせいで周りからの理解を得られないもどかしさなど、
淡々としているけど、全てが実際の体験談なので、ものすごく痛みに近いものを感じます。
信者へのインタビューをまとめた続編『約束された場所で−underground2』も刊行されているけど、
そっちはちょっと読む気になれない。まだ。