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騒動師たち―野坂昭如ルネサンス〈4〉 (岩波現代文庫)

価格: ¥1,050
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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自分自身を1968年や1945年へと繋げる「歴史感覚」 ★★★★★
こういう括りがあるのかわからないけれど、「全共闘」ものである。
 といっても、藤原伊織の小説のように、「かつて全共闘として挫折した男のその後」をナルシズムたっぷりに描くものではない。
 東大安田講堂封鎖から陥落までの、1968年4月から1969年4月にかけて連載された、今おこっている事件としての学生運動を捉えた作品だ。
 本作は、作者と同年代から少し上の、釜が崎に暮らす戦後闇市派の「騒動師」たちが、1968年にアメリカや日本で起こったスチューデント・パワーと呼ばれる現実の「騒動」に便乗し、それを架空のゴールへの拡大させていくエンタテーメントである。
 騒動師たちが知恵を出し合い安田講堂を崩壊へと導く過程は、娯楽小説としても充分に楽しめるものだが、本書を優れた文明批評・時代批評にしているのは、騒動師たちの設定だ。
「別に革命なんていう大それたことではないねん。もういちど、みな腹減らしてガツガツしてる面みたいだけや、親子も夫婦もあらへん。釜の底へばりついたスイトンのかけら、家族がにらめっこする光景をリバイバルさせたいだけやねん。」(P16)
 騒動師たちはこのように戦後闇市世代として、高度経済成長が終わり、経済的に満ち足りた日本に、戦後の混乱を再現することを目的とする。騒動によって、何かをなし得るというのではない。騒動のための騒動をこの(といっても1968年だが)太平の時代に再現し、人々を「驚かせる」ことを企図するのだ。
 六〇年以上前の戦争にリアリティーを感じられないのと同様、私たちは40年以上前の学生紛争にももはや時代としてのリアリティーを感じることがない。だから両者を「等しく現代史」と括ることしかできない。
 だが、わずか戦争が二十数年前の出来事であった1968年には、戦争や戦争の傷が、「今日のテレビに映る」学生紛争とリンクする、と作者は感じている。
「浮浪児を生み出したのは、大人なのに、大人はただ、この目ざわりな存在を、汚らしい、占領軍に恥ずかしいと、ののしる、ごみ片付けるように、処理してしまった、いったい何人が生きのびたことだろうか、学生さんを浮浪児にたとえるなど申し訳ないと、一方では、えらく常識的に思いつつ、ケバラはまた、自分では見たことがないけれど、あれは、たとえば決死隊とか、また予科練をでてすぐ特攻隊にかり出された飛行兵の、表情に似ているのではないかとも思う、あすこまで思いつめたら、そして国家と、まともにぶつかれば、よくいわれるように総学連を出て、すぐに転身し社会のエリートコースをあゆむことはゆるされないだろう。
(中略)あの必死に自分の恐怖とたたかっている表情が、なつかしいのか、昭和元禄とかで、肥え太り、いささかの生命の危険も知らない連中の中で、総学連に心惹かれるのは、戦中戦後の記憶がよみがえるせいなのやろか。」(P240)
 高度経済成長やオリンピックのための開発が進んだ1968年には、すでに戦後闇市の光景は一変していた。しかし「それでいて」、1968年は戦争は目のまえの出来事から、まだ「思い出される」「重ね合わせることのできる」記憶をまだ皆がかろうじて有していた時代でもあったのだ。
 現実は、この小説とは異なり、安田講堂はあっけなく陥落した。全共闘世代のほとんどが「すぐに転身し社会のエリートコースを歩」んだ。それは、スチューデント・パワーの時代の終焉という風に総括されることが多い。
 だが、私たちが失ったのは、それだけだろうか。1968年以降、私たちは戦争の記憶を「まだあり得るもの」として「思い出す」ことが一度でもあっただろうか。10年代に生きる私たちは、自分自身を1968年や1945年へと繋げる、騒動師たちのような「歴史感覚」をもはや有していない。
 野坂の作品はどれも表面的な明るさの裏に、深い悲しみが隠されている。本作のハッピー・エンドは、戦争の記憶が埋葬されていくことへの深い哀悼なのである。