読まなくていい、だから最後まで読んでしまう
★★★★★
古井由吉の文体は小説ではなく詩である。そこに書かれているのもの「ストーリー」ではなく「ことばの冒険」である。読み終えても「結論」(答え)は何も示されない。ただことばで何ができるかだけが各ページにぎっしりつめこまれている。「答え」は「結論」にあるのではなく、書かれたことばのひとつひとつに絡みついている。それをほどきながら読むのはたいへん面倒である。だから、読まなくていい。しかし、いったん読みはじめると最後まで読んでしまう。1ページ読んだら、それがすでに最終ページなのだ。いや、1行読んだ瞬間から、すべてがはじまり、同時にすべてが終わっている。
(詳しい感想はhttp://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/)
内向の世代、幻想の世界に魅惑される
★★★★★
表題作「白暗淵」のタイトルが全てを象徴している。
高校時代に女教師が『聖書』創世記冒頭の話で「元始(はじめ)」「黒暗淵(やみはだ)」と板書して読んだ時のことを半世紀を経て回想する。小生と著者は同期なので、同時体験できる。小生などつまらぬ記憶しかないが、古井はその教師と視線が微妙に交錯する。ここを捉えなければ、この作品、ひいては「内向の世代」の襞の深さは捉えられていないと言えよう。
具体的に言えば、こうである。
『聖書』の言葉に「光は暗黒に照る、而して暗黒は光を悟らざりき」とあり「闇はすこしも白まずに、いよいよ深い闇なの」と教師が言うのに、坪谷(著者の分身)は同意できなかった。教師の視線に同感の相槌を打たなかったのである。
その時の坪谷少年の幻想はそういうありきたりの光・闇の次元ではなかった。
「闇もなければ光も射さず、ただ白かった」そして、いよいよ白く、一匹の羽虫が飛んでいくのを見るのだった。天地の間違いではないかという、大それた妄想のようなものだった。
そして次の含蓄のある一節で本レビューをとどめたい。
「そしてある夜、虫の動きをまた目で追いながら、こんなことがいつまで続く、と訴えるうちに、女教師と目を見交わしたまま、どんな境を越えたのか、唇を寄せ合っていた」
見る言葉
★★★★☆
毎日目にする光景を言葉が飛び交う。
あなたにはどんな言葉の予感が響き、姿をほのめかせ、足音を残して去るか・・・。
同じはずの空間に、著者ならではの新しい視点を燈す晴れた目。
音韻を視線で射止める、日常のなかの日常へ、耳を静める一冊。