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木犀の日 (講談社文芸文庫)

価格: ¥1,058
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
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作家の心象と技巧の変容の足跡 ★★★★☆
古井由吉の十篇の短編を収めた作品集で、発表年は1968年から1994年に亘っています。私がこれまでに読んだ彼の小説は、『仮往生伝試文』(1986年)、『野川』(2004年)、『辻』(2005年)の三冊、『聖なるものを訪ねて』に収められた九篇の掌編(1983年〜2004年)のみですが、この作品集は発表年の順に並べられていることもあり、この作家の足跡と変容を如実に物語るものとなっています。
裏表紙に「内向の世代の旗頭」との記述があります。しかし、彼が物す作品の多くが一人称で書かれていること、人々の心象を明確な輪郭で叙述しないこと、そういった事実を差し置いたとしても、彼に於いて個人の精神と外界の間に断裂が存在している訳ではありません。むしろ、「内向の世代の旗頭」と称される理由として私が想像した上述の二点により、個人の精神と外界の関係がより鮮やかに浮かび上がってきます。
この短編集を読み進めてゆくと、年月を経るにつれて、記述の明瞭さの減退と共に淡さ(曖昧さではなく)が増してゆくことが判ります。これは、精神と外界との距離が開いていったということではなく、その間に存在していた閾が、病や死といった媒介を経て淡いとなっていったということではないでしょうか。これは、作家の精神の自然な変容に根差していると同時に、自覚的に求めた変化であったのかもしれません。
確かにこの作家の文体には、読者を戸惑わせるところがありますが、文体かくあるべきという必要はありませんし、ましてそれが作家が表現を試みるヴィジョンを達成するために選択されたものであるならば、読者はその文体を受け止め、その向こうにあるヴィジョンを捉えるべく試みるべきではないでしょうか。また、読者が文学の豊穣さを自らの内に取り入れたいと望むならば、そういった作業は一つの試金石となり得るのではないでしょうか。
散文・解体・衰弱・極限 ★★★★☆
失礼だが、日本では「小説」がいささか重視され過ぎだ。優れた小説がそんなにある訳ではない。
現存する作家で、散文体の可能性を、逸脱や解体の一歩手前まで追求しているのは、日本では古井由吉と金井美恵子だろう。そして、松浦寿輝と堀江敏幸が、恐らくは自覚的な継承者だ。
本が入手可能かどうかわからない状態が長く続いている。本書は自選短篇集で、簡便に読みうるのは有難い。
最初の「先導獣の話」等は、まだ、1968年の発表当時の時代性が強い。やはり著者の真骨頂と思えるのは、「椋鳥」「夜はいま」「秋の日」といった、所謂狂気を巡る作品。自己─言語─他者─世界が解体していく様は著者の独壇場。
後半は、衰えや老いの主題が前景化してくる。ここでも、登場人物の衰弱と言語の衰弱が共振する。老父を描く「髭の子」等は、中年の読者には切実な印象がある。若い時に読んでも実感が薄いかもしれない。
因みに、日本では、「散文」と「詩」の二項を理解していない人が多過ぎる。言語表現はこの二極からなり、散文が先鋭化すれば、詩的要素の領野が増していく。その意味で、本書は、現代における散文体の極限を示すものとして最高レヴェルの一冊だろう。
難解、マニア向け ★★☆☆☆
日経に連載されていた古井氏のエッセイ「東京の声、東京の音」は非常におもしろかったため、本書を購入したが、残念ながら失望した。

1あまりに当て字もしくは難解な漢字が多いうえに、振り仮名が少ない(例:襤褸、顫わせる)。私の無教養を棚に上げて言うが、振り仮名ぐらいは付けないと、この著者の別の本を読もうという人はかなり稀であろう。自分の教養をテストしたい方には有意義かもしれない。
2複数の登場人物がいるにもかかわらず主語が省かれている場合が多く(特に「風邪の日」)、誰の話なのか混乱する。日本語の文章で主語が省かれることは特に珍しいことではないが、それを考慮しても度が過ぎている。
言葉への自制能力 ★★★★☆
古井由吉は忘れられそうな日本語、または新たな日本語の発見が出来る非常に

稀有な作家だと思われる。基本的に私は小説はあまり読まないのだが、この作家の小説は限られた人生の時間を使って読むに値する作品が多い。本書の中で、個人的には「先導獣の話」、「陽気な夜まわり」、「背中ばかりが暮れ残る」の3編が秀逸で、この3編だけであれば「星5」に値すると思われる。作品によって、読者にキリコやフランシス・ベーコンの絵等、絵画的な想起をさせる本物の小説家である。