れいによって、散漫なレヴュー
★★★★★
辻原登氏は、「黒髪」の中で(、だったと思う)、カフカの言葉(、これも記憶があいまい)、〈私は、悔いる〉という言葉を引用している。心の中に名残を、悔いを残したまま、この世を去るのは、口惜しいことだろう。
本作「春の夢」において、沢村千代乃の生前の顔、そして、死に顔は次のように描写されてある。
生前の顔。
「(略)ひとりの人が、何枚ものお面をかぶって、取っ換え引っ換えしてる感じ。顔は変わっても目だけは一緒(略)」
と、陽子。
死に顔。
「きのう、お棺の扉を開いたら、沢村さんはお面を全部外してた」
と、哲之。
これは、
死に顔こそが、その人間の、隠しても隠しきれない究極の本性なのではあるまいか。
という哲之による仮説と直結した言葉だった。「死に顔」は、その人の生き様を映す鏡らしい。自分は、悔いなく生きられるだろうか。悔いなく生きたかどうか、それは、私が死んだときでなければ、わからない。
この小説の書き出しは、こうだ。
夕暮の道に桜の花びらが降ってきた。桜の木などどこにも見あたらない商店街のはずれだったので、井領哲之は、それが誰かのいたずらで、自分の体めがけて撒き散らされた小さな汚物みたいな気がして、頭上のあちこちをかすかな怯えのまじった目であおいだ。
「桜の木などどこにも見あたらない」にもかかわらず、「桜の花びらが降る」。不思議だ。不気味だ。怪談じみている。何かが起こりそうだ。そんなとき、主人公の哲之は、「誰かのいたずら」として、いわば合理的・現実的な判断を下している。この時点で、哲之は、読者は、どこか別の世界へ連れ込まれてしまっている。
書き出しの描写は、ラストで次のように変奏される。
ときおり、操り人形のように首をもたげ、春の光に満ちた空を見つめた。(略)
哲之の身に何が起こったのか、それは、本書を読んでのお楽しみ。
最後に、本書における名言を一つ紹介して、このレヴューを閉じたい。
「人生が五十センチの長さのもんやとしたら、男と女のことなんて、たったの一センチくらいのもんやで。そやけど、その一センチがないと五十センチにはなりよれへん」
虚無とデカダンを抱えて生きる。
★★★★★
ある日真っ暗な部屋で哲之は、柱にクギを打とうとして
いっぴきの蜥蜴まで打ち付けてしまう。
しかし、それでもなお蜥蜴は生きていた。
哲之はこの蜥蜴を「キンちゃん」と名付け、
2人は奇妙な共同生活を送る。
哲之には死んだ父が残した借金があり、
取り立て屋のヤクザから逃げてこの部屋にやって来た。
柱にクギ付けにされたキンちゃんと
どこにも行き場の無い哲之との奇妙な日々。
ホテルのボーイのバイトの日々を送り
ホテル内の権力闘争に巻き込まれ、さらにヤクザに
見つかり殴られ、死にかかる哲之。
唯一の救いであった陽子の愛。
しかし、その陽子にも別に心を惹かれる男が現れる。
心に虚無を抱えて生きる哲之。
これは現代版『山椒魚』だ。
青春物として仕立てられていて、滅法面白い。
やっぱり青年は、虚無やデカダンを身に抱えて生きねば。
当時の青年に比べて、昨今の青年達の何と薄っぺらな事か。
そんな事を考えながら読みました。
こんな青春も、アリ。
★★★★★
15年前、まだ学生だった頃に出会った。
みずみずしい生命の躍動と静謐な清潔感を同時に感じる作品。
タイトルは「春の夢」に改題してよかったと思います。
あなたがまだ学生なのであれば、
数時間と数百円をこの小説にささげてほしい。
自分の中では宮本作品中「錦繍」と並ぶベスト作品です。
ああ、学生に戻りてえなぁ。
悪くないが、青が散ると比べると見劣りしてしまう
★★★☆☆
壁に釘で止められてしまったトカゲと、親の借金で身動きが取れなくなってしまった主人公。彼らは自由を手に入れられるのだろうか?というテーマで、主人公の姿をトカゲに投影したのを面白いアイデアだと思う。しかしながら終盤の展開が強引すぎて、少し興ざめしてしまった。
トカゲのキンちゃん!
★★★★☆
「空を飛ぶものは、みなふたつの翼を持っている。そして、一つの鏡を持っている」。湧き出る生命力を信じ、明るい方へ向かいたくなったときに読む本。私はこの本が大好き。何度も読んでいます。