著者は言います。「陸軍の能力はこれだけです。能力以上のことはできません」と国民の前に言っておけば何でもないことを、でっちあげた「無敵」という虚構に足を取られ、それに振り回されその虚構が現実であるかのように振る舞い、虚構が虚構だと指摘されそうになれば興奮して居丈高にその相手を決めつけ、狂ったように無敵を演じつづけ、万一の僥倖を頼み無辜の民の血を流しつづけた。その人たちの頭にあったものは何であろう。妄想ではないか。存在しない無敵の軍隊の実体が明らかになればすべてが崩壊することを知っていた。それが恐ろしいから虚構と神風にしがみついた。いざというとき、静かなる自信に基づいた発言ができず、神かがり的発言と動物的攻撃性で論理を封じるものに主導権を握られる。この悪循環は自分でもどうにもならなくなっていたではないか。
深い怒りとともに、「本人を死まで追いこんでいったのが、帝国陸軍なのか世間なのかと言えば判定は難しい」といったコメントに、一昔前の軍隊だけの問題と認識するに危機感を憶えます。
たとえば本書の中に、「要領」という言葉がしきりに出てくる。「要領」というのは、一言で言えば現場を知らない本社(本書では参謀)の指示を、いい加減な員数あわせですませることである。より具体的には、10門の砲をこの地点に、いついつまでに、という指令が来れば、それは極端にいえば砲だけを持っていけばいい。砲があっても弾がなければ大砲は撃てない。陣地として機能しない。しかしそれは帝国陸軍では問題にならない。なぜなら「10門の砲」という員数はあっているからだ。
また本書は、帝国陸軍が本気で対米戦を準備していなかったという、驚きべき事実を披露している。士官学校で教官が重々しく、「今日から対米戦に重点を置いて教育する」という。しかし照れくさそうに、「何を教えたらいいのか、実はわしにも分からん」と付け加える。そして陸軍はその最後に至るまで、陸軍全体の方針として、それまでの経験を踏まえて対米戦の戦略・戦術を大転換するということはないのである。しかし掛け声だけは、「対米戦!」と声を張り上げる。なんという形式主義なのか! そしてこの形式主義は、現代の日本の組織の中で、かなり多く見られるものではないか。
本書は多くの哲学的考察を含んでいて、著者の教養の深さと、戦争という非常体験を通じていろいろなことをお考えになったのだろうということがひしひしと感じられた。後世に生きる私たちの使命は、本書から少しでも知恵を得、現在に至るまで日本社会に潜む構造的欠陥を、少しでもなくしていくことだろう。