安易な戦争論を糺す渾身の論考!!
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最近、ある戦史研究会の会合に出る事があり、それで戦争関連の書籍もまた読んで置かなくてはと思ってゐるうちに古本屋で買ひ求めたのが本書である。本当に久し振りに−多分十数年振りだらう−山本七平の本を読んでわけである。二十五年位前に山本七平の手になる「私の中の日本軍」を読んだ時の驚きと感銘は、私の中に抜き難く残ってゐる。戦争と日本人について根源に迫る深い洞察を与へられたからである。今回読み終へた本書は、前記著書の戦争論を書く発端になった最初のエピソードから始まってゐる事が分かる。
ある種の図式が数学の定理の如く一人歩きし、そして、その図式を認めない事への圧力がかかる現実に筆者山本七平は、戦前戦中と変はらぬ恐るべきものを感じ取ったわけである。その問題の言を発したのが、毎日新聞編集委員の新井宝雄である。彼は自分が反省するよき日本人と自称し、親中共姿勢を取るべきだとの神話を振りかざす人物である。しかし、彼は毎日新聞が関はる「百人斬り競争」について全く言及しない逃避の姿勢に終始する。彼を言ひ諭すやうに書き進められた本論考は、論理術のポイントを幾つも幾つも提示した上で、自らの体験も重ねて「飢ゑ」といふ環境がつくる現実、宣撫工作の構造から来る占領言語空間の現実を抉り出してゐる。空疎な戦後空間の欺瞞を一つ一つ薄皮を剥ぐやうに始まった山本学の光が鏤(ちりば)められてゐる。かなり濃縮されてゐる論考なので、現実例の水で薄めて理解しなければ、ピンと来ないので多大なエネルギーが要るかもしれない。しかし、さういふ知的作業を経ないと日本知識人層の重厚さは形成されないと思った次第である。
戦争体験を説明する
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著者の山本七平氏はフィリピンでの従軍経験をもとに、一貫して第二次大戦の意思決定構造について論じている。それは、将軍クラスから末端の下士官クラスまで守備が広い。
彼は70年代にこの本を書いているが、あれから40年近くたった今でも、彼の指摘する日本人的思考の弱さを実感する。
「戦争体験」と「敗戦体験」
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戦後民主主義の日本で語られる戦争体験は大抵が敗戦体験に過ぎません。特にテレビ、新聞で語られる「戦争を風化させない」「戦争を語りつぐ」などはそうだと思います。そんな中で例外的に戦争体験を語る数少ない人物の一人が山本氏です。戦場の状況、兵士の心理、捕虜体験、そして人間が持つ偏見、どれも興味深いものです。
敗戦体験を語る人は、おそらく反戦運動だと思っているのでしょうが、実際は反戦運動になっていません。なぜならば、敗戦で酷い目に遭ったという話を突き詰めると、勝てば良いという話になり、それに加えて、戦争をしなければ酷い目に遭う時はどうするつもりでしょうか(だからこそ、戦争という選択肢がある)、粛々と酷い目に遭うつもりでしょうか。
あらゆる人間に偏見があり、自分の偏見を絶対視せずに偏見を語り合うことが、真実に近づく道である、という山本氏の主張は考えさせられるものがあると思います。他にも日本人の国民性や精神論などの考察が載っています。真の意味で平和を考えるならば、山本氏の「戦争体験」に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。
戦争体験を下敷きにした労作
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山本七平氏の本の中でも三本の指に数えられる力作であると考える。
本書は、旧大戦で日本が中国に原因について、元毎日新聞編集委員、新井宝雄の分析に対して、著者が「ショック」を受けたことを告白することから始まる。
新井氏は日本の敗因について曰く。
「・・・私は・・・『深い反省からこそ多くのもの生まれる』と考えている。
たとえば強大な武器を持っていた日本がなぜ中国に敗れたのか。それは偶然に負けたのではなく負けるべくして負けたのである。それは、なかば植民地化された中国を、独立化したいという中国民衆の燃えたぎるエネルギー、いいかえれば反帝、反封権の進んできた中国力革命の力量によって負かされたのである。・・・」
山本氏は指摘する。
新井氏の日本敗因に関する発想は、戦時中の日本軍、日本人の発想と比べれば、
「・・・新井氏の『日本軍』というところが『英米軍』にかわり、『民衆の燃えたぎるエネルギー』が『精神力』にかわっているにすぎないのではないか。・・・」
と。
ここから、本書が発行された頃、日本文化的進歩人マスコミを中心にを覆っていた文化大革命礼賛、追従の「空気」は、結局のところ、戦時中の日本を覆っていた「空気」の裏返しに過ぎないのではないか。
思うに、日本人の十八番、根本的原因探求を避け「あいまいなきれいごと的発想」でその時点の「空気」に合わせ、自身の良心を示そうとする基本的な日本的は何も変わっていないのではないか。
日本だけで200万人という犠牲を被った挙句の総括が、このザマか!!というショックであると思う。
その後、新井氏と山本氏との間に交わされた議論、そしてそこで示される山本氏のさまざまな観点からの考察は、今でも我々に非常に強烈な示唆を与えてくれるものと信ずる。
当時の「空気」を想像するに、山本氏の本書での考察は当に“KY”と思われ、その分析・追及が鋭ければ鋭いほど、社会的な波紋は想像以上だったろう。
小生が思うに、著者が本書を通じて一般社会に投げかけたかったであろう疑問は・・・
本来、客観的であるべき事実の探究が、何故特定のイデオロギーによって左右されてしまうのか?
何故、進歩的文化人といわれる人々は左に倣えで南京事件から百人切りを肯定し、そして当時の文化大革命の成功を喧伝するのか、逆に右翼といわれる人々は右へ倣えそれらの事実を否定するのか。
これは偶然の一致か?
いかにも摩訶不思議でおかしいではないか?
一つ一つの事実の検証が特定のイデオロギーによって左右されてよいのか。不偏不党の観点から客観的になされるべきではないのか。
という至極自然で素朴な疑念であると思う。
氏の一貫した冷徹な論理展開に、多くの人々が“詐欺師”“右翼”等と一方的な罵倒に徹してしまう心情も理解できる。
なぜなら氏の論を受け入れればそれは即ち自分の社会的なレゾンデートルが根本から崩壊してしまうと思われるからだ。
その後、山本氏の考察が上記のようなレッテル貼りによって黙殺されていったとしても不思議ではない。
戦後日本における一巨人の思考方法を学ぶ上でも、必読の書として強く推薦する。ぜひ、諸兄ご自身の頭で是非をお考え頂ければ、様々な貴重な示唆が得られるもの信ずる。
理屈と無神経の狭間
★☆☆☆☆
何かしら不快である。読んでいて「知性」だとか「論理」だとか言われるものの異臭がしてくる。この良心を卸金にのせられたような心持がいったいどこから来るのか、考えてみた。まず第一に、この著者の狡猾さが明らかに臭う。この著者は、自分の思考が「偏見」であるという開き直りと、マイノリティーという弱者の領土の住人であるかのごとき行間の仄めかしを論述のアジトとし、論理が危うくなりそうになると、その臭い穴倉に逃げ込んで、中から捨て台詞を吐くという戦術を駆使する。第二に、本物の弱者や被害者を、平然と格付けする異常な無神経さが臭う。著者の「偏見」のもとになったという戦場体験によって、ある種の倫理的感覚をもまた麻痺してしまったというのではあるまいが、権力の不正に対する反逆への倫理的共感を、屑のごときに扱う権利は、無論著者にもないのである。著者の思考が歴史の修正主義者を「扇動」し、巨悪の自己正当化を幇助し続けていることに対して、そういった事態に、高見の見物を決め込むことのできた著者から、弁明のひとつも聞いてみたい気がする。