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今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

価格: ¥777
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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アーレントを現代の日本に適用するために ★★★★★
社会の言論における複数性というキーワードを用いて,著者はアーレントの思想を紹介していきます(と私は読み取りました).

例えば,現代日本では,秋葉原での無差別殺人事件に対する分かったような話,格差社会が新自由主義による小泉政権時代に依るものだ,などの単純でわかりやすい物語が,なぜダメなのか,ということです.

最近の日本では,非常に単純化された図式が各政党から発せられ,それに安易に乗っかった選挙民により,選挙結果が大きく左右される,ということが続いているように思われます.ですから,こういった状況に批判を与える本書のような比較的平易な本が出版されるのは大変意義があることだと思います.まあ,そういう言説がちょっとおかしいな,と思わないような人間は,アーレントについての本を読もうとは思わないかもしれませんが.

また,新聞の社説で物事を異様に単純化して図式化するような言説が多いと思うのですが,社説を書く編集委員なんかは法学部とか文学部とか,文系の学科を出ているはずですよね.この本に書かれているような基礎的な素養というのは勉強しないんですかね?
「世論」の精神的奴隷にならないために ★★★★★
2009年、ある女性芸能人が覚せい剤事件で逮捕されたときの、マスコミの反応はすさまじいものであった。
事件そのものは、弁護士の立場から言うと、極めてありふれたケースだったのだが、マスコミの多くは、このときとばかりに、自分が「国民の声を代弁している」とばかりに、その芸能人に対するバッシングを繰り広げていたし、私の知人の中にも、「彼女は極刑に処すべきだ」と言っている人がいた。

恐ろしいと思った。
「自分で考える」という作業を放棄すると、人間の思考はいとも簡単に均質化し、全体主義の陥穽に落ちていくのだということが、身に染みて分かった。

人間は、ともすると、「分かりやすい意見」を求めがちだ。
しかし、その「分かりやすい意見が間違っている可能性」をも認めなければ、人間の思考は、簡単に「国民の声」「世論」等に同一化し、精神的に奴隷となってしまう。
だから、「分かりにくくさ」「結論のはっきりしないあいまいな状態」に耐える精神的体力が必要だと思う。

本書は、まさしく「今こそ」読まれるべき本である。
アーレント政治哲学入門 ★★★★☆
政治哲学、またはアーレント政治哲学のための入門書です。
「政治」「全体主義」「人間性」「複数性」「自由」など
アーレント政治哲学のキーワードを一般の意味・理解と
対比させながら解説しています。
そしてアーレントの思考で行くと、現在の日本には
自らを公開し自分の意見を他者とぶつけ合って
物事を複眼的にとらえられるようになる
「政治」はない、と筆者は述べています。
何はともあれ、本書は「まだ分かるアーレント政治哲学」が論じられているので、
アーレントと初対面の人、もしくは彼女の政治哲学を復習したい人に最適です。
単純な善悪の構図に乗っかる「今」に冷や水 ★★★★★
「今こそアーレントを読み返す」という時の「今」とはどんな今かというと、それはそれが右翼的であれ左翼的であれ、アーレントで言う「多数性」が失われた状況、画一的な風潮にあるような、そういう今である。もっと具体的に本書が出たその時に著者に意識されているのは、まさにフリーターや派遣、格差をめぐって盛り上がる左傾の言説、ネオリベを絶対悪とした総バッシングの流れである。著者は決して保守的な人物ではないはずだし、むしろリベラルや左派と同程度かそれ以上に保守的な言説が嫌いなはずなのだが(不自由論でも一応保守派を叩く箇所はあるが短め)何故か保守派よりもそれに対するリベラルや左派に冷や水を浴びせに来る事が多いように思う。繰り返すようにだからといって保守的な人物でもないのだが…と、こういった事は著者が自認し、またアーレントと共有している特徴と述べているような「捻くれ」からくる立場なのかもしれない。こういう言い方が少し悪いならば、アーレントと同じ、単純ではない、簡単な善悪二元論ではない、分かりやすい正義に安易に回収されない、多数性を重んじる、右とも左とも呼びにくい、そんな立場とでも言うべきだろうか。

アーレントは右からも左からも人気があるという。彼女は一体どちらなのだろうかという事が言われる。いくらかの思慮深そうな人がその立場をとるように、私も最終的にはアーレントが右左どちらに区分されるべきかなどという問題は本質的には何も重要ではなく、区分の必要すらないと思う。綺麗な模範解答としては右でも左でもあるとか、両方のいいところを備えているのが彼女であるとかつまるところ右左を越えているのだ、その自分自身が多数性多様性を体現してるかのような点が彼女の魅力であり、学ぶべきところなのである、とか言うと良い感じのまとめになりそうである。

多数性を何よりの目的とするアーレントは当然ファシストではありえないし、しばしば見られる右翼のように異物や異論に対して排他的で不寛容にもならないだろう。また右翼とは多くの場合に多数意見あるいは自分の保守的で古臭い拘り、価値観、嫌悪感、また伝統などを無条件に正しいものとして押し付けてくるものだが、これも著者が指摘するアーレントの「明白な正しさ」に対する懐疑とは相成らないものだろう。さらにはアーレントは革命に否定的だと言われるが、それはフランス革命に対してであってアメリカの独立革命に対してはその限りではない。また良心的兵役拒否などに関しても支持の側に回ったという点で権力の味方でもない。このようなアーレントが左から支持を受け左性を見出されるのは納得のいくところである。同時にアーレントが一定の保守性を持っていた事も事実である。

アーレントにとって最も重要なのは多数性と、それに基づいた活動、議論なのであってフランス革命の否定、独立革命の支持、徴兵拒否の支持、ファシズムへの反対などは全てこの価値観に基づいたものだ。アーレントが右とも左とも言われるが右でも左でもないと言えるのは右の絶対主義にも左の絶対主義にも反対するからだろう。著者はこのようなアーレントに習って分かりやすい正義を掲げて不正と戦うという事をなかなかしようとはしない。画一的な流れに抗いもっとゆっくり考えよう、じっくり話し合おうというような事を言う。いやもっときつい言い方で冷や水を浴びせる事しばしばだ。私などは本書の評価を高くしつつも実の所は著者に冷や水を浴びせられる事が圧倒的に多そうな立場で、同時に著者の姿勢に全面的に賛同するというわけでもないのだが、それにしても無思慮な正義の暴走を防止するには著者の冷や水は意義深い役目を果たしうると思っている。

排他的で暴力的で熱狂的な右翼がろくでもない右翼であるならば、寛容的で非暴力的で理性的な、単なる善意、革命や急進の暴走への危惧から保守的な立場を維持するのは、左翼と相互補完できる、支え合う事が可能な種類の右翼、単なる穏健派、漸進主義としての右派、最も正しい形の保守主義であると思う。どちらかといえば右とすら言われるのに左翼からも肯定的に扱われるその正しい保守性、我々が本当に正しくあるためには自明の正義を押し付けず多様な意見の存在を認めその中で話し合っていくべきという理想、我々はこういったアーレントの思想から多くの意義深く生産的な事を学び取る事が出来るはずだ。
自分の担当している業務内容の善悪を考えることなく仕事をするだけの平凡な市民などいくらでもいる ★★★★★
『イェルサレムのアイヒマン』
「自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。
そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。・・・
完全な無思想性 ― これは愚かさとは決して同じではない ―、
それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ」

> 平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、
> という困惑させられる事態を淡々と記述した
アーレント・・・。

> 近代の哲学者が、「人間」存在の根底にある最も本質的なものを追求してきたのに対し、
> アーレントは「見せかけ=現れ」を重視する。

> 大事なのは、その人の振る舞いが、人間の "自然本性" に適っているか否かではなく、
>「公的領域」における「現れ=登場=見せかけ=仮象 appearance」として一貫性があり、
> それが他の市民たちに認められているか否かである。心底から "善人" であるかどうかではなく、
>「良き市民」という役割を、公衆の面前で演じ切れているかどうかが問題なのである。

> 「心の闇」を問題にするのは全くもって無意味なことである。・・・
> 問題なのは、公/私の境界線の感覚がどんどん曖昧化して、「心の闇」に押し込めておくべきことが、
> 表出してしまうことであって、「闇」があること自体ではない。「闇」は誰の内にも常にあるのである。