便宜主義の遠因は、プロセスを無視した鎌倉仏教にあるのでは?
★★★★★
本書は、“日本人がつくった仏教とはどのようなものであったか、を描きたいのである。(p.10)”という著者の言葉通り、日本人による日本人のための仏教が鎌倉仏教の法然と親鸞によって生み出されたことがよく分かった。そうした分析に立つ著者は“私の見るところ、近代以降の歴史において、仏教が社会の諸制度の中に慈悲を貫徹させようとする試みは極めて微弱である。13世紀に誕生した、深い人間認識に支えられた仏教の救済思想は、現代では便宜主義の中に埋没しかかっている。(p.215)”と警鐘を鳴らし、“大切なことは、今、私たちの目前にある「仏教」がどのようにして生まれたのか、その道筋を明らかにすることであろう。その道筋にこそ、日本人の創造力が働いているのである。その創造力には、便宜主義の闇をも乗り越える可能性があると信じたい。(p.216)”と締めくくる。
ただ、便宜主義という言葉に注目するならば、著者が最も評価する法然と親鸞の創出した鎌倉仏教こそがその遠因だと断定せざるを得ない。なぜならば、著者自身が“法然の浄土宗が登場して初めて、戒律の有無に依らない成仏の道が発見されるに至ったのであり、求道者は、僧侶になってもよし、在家であってもよし、戒律を守ってもよし、守らなくてもよし、という、従来の仏教の基準とは全く異なる、新しい道が出現したのである。その道を徹底したのが、親鸞だったといえる。(p.101)”と指摘しているように、鎌倉仏教こそが「途中のプロセスを省略した結果重視の成仏法を発明した」からである。
従って、便宜主義の闇を乗り越える可能性は、法然や親鸞の鎌倉仏教の延長線上にはなく、現代人に相応しい成仏のプロセスをブッダ釈尊の熱誠から学び取って日本人のためのEngaged Buddhismを創造することではないだろうか。
日本の仏教史を知ろう
★★★★☆
日本人と仏教および「自然宗教」とくに神道などとの関係がよくわかった。
とくに神仏習合や葬式仏教など、日本独特の宗教のスタイルが細かく説明されている。
多くの文献が紹介されているので、今後の読書につながり、ありがたい。
ただ、著者がもっとも強調したかったらしい日本仏教の「慈悲」については、多少の「慈悲」はどの宗教にもあるし、今の日本仏教に「慈悲」を感じることは難しいし、どうしても、与える慈悲ではなく、庶民が必死に求める「慈悲」(現世利益)ばかりが目立つため、あまり印象には残らなかった。
日本の仏教がわかるようになる
★★★★★
玄侑さんに「ご一読をお勧めしたい」と言われて、読んでしまいました。
仏教無識者の私には難易度が高いかと思いましたが、一気に近い読み方ができたことを考えると、わかりやすく面白く書かれた本ということでしょうね。
ひとことで言いますと、日本仏教の特異性について分析した本です。
生前に「覚者・・・本来の「仏」の意」になることを目標とする仏教が、日本においては、死後の成仏を目指す仏教になっているのは何故か。
日本に伝搬した仏教の歴史を追いながら、阿満氏が自分の考えにもとづく解説していきます。
日本人は、仏教と出逢うことにより、それまで知らなかった「慈悲」の精神にふれて驚き、「慈悲」こそが仏教であり、仏教から学ぶべきはこの一点にある、と思いいたった。
このことはきわめて重要な点だと思う。(「おわりに、慈悲との遭遇」から引用)
わたしはこの一冊しか読んでいないのに、すっかり納得してしまった。
「私などとはまた違った論理なのだが」納得してしまったと、玄侑さんが感想を書くのだから、阿満氏の論理の展開には相当なものがあるにちがいない。
日本人はなぜヘンな仏教でOKなのか
★★★★★
日本以外の仏教を知っている人にとって、日本の仏教は物凄くヘンに感じられる時がある。僧侶の妻帯、というのがそのヘンさの筆頭だが、それに加えて葬式にやたらと特化していたり、個々の土地の神様との関係の仕方が非常にバラエティ豊かだったり、地蔵というキュートだが霊威あふれる子供向けの仏様に人気が集まったりする。
本書は、そういう、インドのお釈迦様が説いた教え、という意味での仏教から見れば、少し変わった日本の仏教の諸相について色々と論じた本である。同じちくま新書で1998年に出版された日本宗教論の名作、『日本人はなぜ無宗教なのか』の著者が、民俗学や宗教史、とくに五来重(もうすぐ著者集が出るそうな)など仏教民俗学の成果を主に参照しながら、アニミズム的な自然宗教と「慈悲」に基礎づけられた創唱宗教のあわいをただよう日本仏教の真髄に迫る。根本的には法然や親鸞など浄土教の理念を信奉しつつ、しかしその理念に原理主義的に固執するのではなく、あくまでも日本人の生活現実によりそいながら仏教の過去と未来を模索する。
特に興味深かったのが、「葬式仏教」に関する見解である。本来の仏教とは異質だ、とされながらも、葬祭に仏教が徹底して関与したからこそ、死(者)の平等、生(者)の安心を日本人は得ることができ、それゆえ憂いに沈まないで暮らしてこれたのではないか、と著者はいう。そして、「葬式仏教」の存続が危機にあるようにも思われる現在、一方で、これは仏教が改めて生きた教えに生まれ変わるためのチャンスであるかもしれない、と述べながら、他方で、死を仏教的に意味づけるのをやめ、ただ生の終りとしての死や「靖国」のような差別的な死者の扱い方だけが残るのはどうだろう、という疑念も示す。これは考えどころである。
その他、話の中心はむろん仏教であるが、しかし日本人の宗教の行く末までも想像させられる部分が多々ある本である。