著者によれば、きわめて表層的な言語としての日本語は、
現実世界の厚みを湛えた具体的な事物に到達しようと思えば、
力み返った言葉をトートロジカルに重ねざるを得ないという、
どうにも「ペラい」特質を持っているらしい。
その上で、彼らの文体に典型的にみられる、
・筆圧が高く、妙に力み返った言葉遣いの夜郎自大性
・それゆえの痛快なドライブ感や、饒舌な勢い
・胎児のように肥大した自己の全能感と、観念的な領土拡張意欲
といった特徴を挙げ、
これらは日本語の「ペラさ」と深く結び合っているとするのだが、
一見、なかなか説得力がありそうなこの議論も、
かつての大日本帝国との同質性を云々するあたりになると、
ほとんど思いつきと言っていいようなレベルに堕してしまう。
そもそも、日本語は「ペラい」という主張自体、
中国学者の加地伸行の受け売りに過ぎないようだし、
「中国語の漢字が完全な表意文字であるのに対し、
表音的な使用の性格が強い日本語では、
漢字が本来持っている意味合いが低下している」
という加地の議論の流れからすれば、
「じゃあ、表音文字だけの欧米語はどうなるの?」
という疑問が湧き上がるのをいかんともし難いのだが、
中国語以外との比較がなされる気配はなく、
いかんせん論証が貧弱過ぎて、真に受ける気にはなれない。
単なる思いつきをそのまま活字化したかのような論証の甘さは
この手の文芸批評にはつきものなのだから、
あまり突っ込んでも仕方がないのかもしれないし、
いくつか刺激的な指摘もないではなかったので、
☆三つの評価とした。