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現代小説のレッスン (講談社現代新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:石川忠司/著 出版社名:講談社 シリーズ名:講談社現代新書 1791 発行年月:2005年06月 関連キーワード:ゲンダイ シヨウセツ ノ レツスン コウダンシヤ ゲンダイ シンシヨ 1791 げんだい しようせつ の れつすん こうだんしや げんだい しんしよ 1791、 イシカワ,タダシ いしかわ,ただし、 コウダンシヤ コウダンシヤ 2253 こうだんしや こうだんしや 2253 ブンガクはこう読め!村上龍の描写力、保坂和志の孤独、『海辺のカフカ』の新しさ、舞城王太郎の全能感-文字界をリードする作家たちの成功と失敗を、気鋭の批評家が抉り出す、異色の文学入門誕生! プロローグ 純文学の「エンタテイメント化」について1章 村上龍はいかに「描写」するか-ガイドの「足」としての文学2章 保坂和志の描く共同性と「ロープ」3章 村上春樹と純粋なメランコリー4章 暴力と物語領域-村上春樹・阿部和重5章 神の狂ったロジック-舞城王太郎・いしいしんじ・水村美苗
春樹>龍? ★★★☆☆
村上龍、村上春樹、阿部和重など僕の好きな作家たちを批評した新書を見つけたので読んでみました。

著者は40前半で気鋭の文芸批評家。
なるほど文体にはなかなかキレがありました。

村上龍に対する彼の評価=『ガイド』的文学。
そして説教くさいのが玉に瑕。

著者はその説教臭さを嫌っているというか呆れている様だ。

まぁ確かに彼の小説は見方によっては説教臭い。でもおれは好きだ。そこは好みだろう。
著者によればその説教臭さで一気に文学的価値を下げているとのことだが。

そして春樹に関して著者は『海辺のカフカ』を非常に高く評価している。

逆に、同じく春樹の大作として世間では評価されている『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞受賞)に関しては、阿部和重を用いて批判的な見方をしている。

そこら辺なかなかおもしろい。

ねじまき鳥もカフカも昔読んだけど、あんまり覚えてないから、もう一度読み返そうと改めて思わせてくれた。

阿部和重に対しての批評は非常に新鮮で良かった。僕が好きな阿部和重を筆者も認めているようなので、そういうのって何か嬉しい。
ブックガイドとして悪くはないのだ。 ★★★☆☆

わざとチャート式に整理していないためか
話がそこここに飛んでやや判りにくい。

しかしながら、最近の小説を小気味よく料理していく手腕は
ブックガイドとして決して悪くないのだ。
江国香織をはじめとして女性作家の分析も
もう少しほしいところだが。
新書らしく、興味を持ってすっきり読める ★★★★★
文章がかたくて読みにくいところもあるが、まったくわからないというようなところはない。考えればわかる。説明が足りなくてわかりにくいというところはちとあったけど、それも許容範囲。W村上についてはあまり面白く思わなかったが、舞城、森、いしいしんじなど現代の若手作家の実力を論じたところは面白く思った。若い作家を論じる評論って、どうしてもただの紹介になりがちだけれど、彼らの手法の新しさを面白く、たぶん正当に論じているということはなかなか貴重で、そこだけでもタイトルに偽りなしという感じで、好感を持った。
日本語はペラい? ★★★☆☆
この本でいちばん面白そうに見えるのは、
日本語の圧倒的な「ペラさ」を根拠に
阿部和重や舞城王太郎の文体を分析している部分だろう。

著者によれば、きわめて表層的な言語としての日本語は、
現実世界の厚みを湛えた具体的な事物に到達しようと思えば、
力み返った言葉をトートロジカルに重ねざるを得ないという、
どうにも「ペラい」特質を持っているらしい。

その上で、彼らの文体に典型的にみられる、
・筆圧が高く、妙に力み返った言葉遣いの夜郎自大性
・それゆえの痛快なドライブ感や、饒舌な勢い
・胎児のように肥大した自己の全能感と、観念的な領土拡張意欲
といった特徴を挙げ、
これらは日本語の「ペラさ」と深く結び合っているとするのだが、
一見、なかなか説得力がありそうなこの議論も、
かつての大日本帝国との同質性を云々するあたりになると、
ほとんど思いつきと言っていいようなレベルに堕してしまう。

そもそも、日本語は「ペラい」という主張自体、
中国学者の加地伸行の受け売りに過ぎないようだし、
「中国語の漢字が完全な表意文字であるのに対し、
表音的な使用の性格が強い日本語では、
漢字が本来持っている意味合いが低下している」
という加地の議論の流れからすれば、
「じゃあ、表音文字だけの欧米語はどうなるの?」
という疑問が湧き上がるのをいかんともし難いのだが、
中国語以外との比較がなされる気配はなく、
いかんせん論証が貧弱過ぎて、真に受ける気にはなれない。

単なる思いつきをそのまま活字化したかのような論証の甘さは
この手の文芸批評にはつきものなのだから、
あまり突っ込んでも仕方がないのかもしれないし、
いくつか刺激的な指摘もないではなかったので、
☆三つの評価とした。

日本語の「ペラさ」に居直って、痛快な現代小説論 ★★★★☆
 プロローグで著者は、ベンヤミンに依拠しつつ次のように宣言する。「物語」は本来的に口頭で語られるもので、声や身振りの豊かさがあるからストーリーむき出しでもOK。けれど、これをそのまま文字にすると豊かさが失われて、平板・退屈になってしまう。そこで描写・内省・思弁的考察など、プラスαの要素が加わって声や身振りの代わりをする。現代文学はこれらに加え、さらにエクリチュールの次元を発見したが、しかし、ハッキリ言ってこの忙しい時代に、もうそういうのはカッタルくて付き合いきれないんだよ…云々。

 この状況に対処する現代小説の方向を、著者はエンタメ化と名づける。ただし単純にプラスαの部分を削って物語に回帰してしまうのでは元も子もない。構造分析以来、可能なストーリーの品揃えが貧しいこともバレバレなわけだから、なおさらだ。こういう八方塞の中で、著者は村上龍の「描写」、保坂和志の「思弁的考察」、そして村上春樹・阿部和重から舞城王太郎への流れの「内省」に、現代小説の生き残りを賭けた綱渡り的模索を見る。

 大きな扱い=高評価、では必ずしもないようで、たとえば舞城作品は重要なポイントで却下されているように思う。あるいは全体の位置づけから考えるとバランスを逸して紙数が割かれている村上春樹にしても、「悔しいけど評価せざるを得ない」みたいな感じ。村上龍に対するツッコミも笑える。最後で採り上げられる水村美苗についての論では、「そもそも小説とは…」みたいな話にまで発展して、水村に対する著者のリスペクトが伝わってくる。他にも、高橋源一郎が常民を描く革命文学だなんて話は、ちょっと気が利いている。

 著者は阿部和重に絡めて日本語を本質的に「ペラい」言語と論じており、その議論は興味深いのだが、著者自身も明らかに意識的に「ペラい」表現を取り入れている。