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多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13

価格: ¥2,484
カテゴリ: 単行本
ブランド: NTT出版
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分析はするどいが、提言に即効性がない。 ★★★★★
なぜこんなにも現在コミュニケーション能力だの、人間力だのというのかについての分析はとても分かりやすいです。

しかしながら、筆者の提言は私にはいまいち。
だって、このうねりのまっただなかにいる人間にとっては、人間力を向上させるしかないのだから。

次の2点の方針をさぐるべき。
●人間力の測定を、学力と同じようにいかに公平にするか
●万人向けの人間力の向上のカリキュラムはどのようなものか

筆者の提言が実現されても、人間力による人物の評価はなくならない。
だって、採用選考でなくとも、みな「なんとなく○○さんがいい」や「△△さんはちょっと」というように、人間を機能主義的な見方で判断しているから。
また、そもそも人間力とは「魅力」のようなポジティブな意味だと思う。
皆が学力と同じように、向上させられる世の中は良い世の中ではないだろうか。
ハイパー・メリトクラシーという造語の意義 ★★★★☆
ハイパー・メリトクラシーという造語自体は社会学の「再帰的近代化」概念の影響を強く受けている感がある。学歴、資格、IQといったものが支持されていた時代から、EQやソーシャル・キャピタルなどの言葉が近年さかんに登場するようになり、新しい能力観、多元化した能力観に基づいて評価される社会になっているという感じは脱学歴主義が進む日本にとっては納得がいくだろう。

では、ハイパー・メリトクラシーという言葉自体には意味があるのか。メリトクラシーという言葉が生まれたのは1958年らしい。近代の能力観が語られだすのが20世紀に入る前後で再帰的近代化の議論が70年代以降というのを考えれば「前近代(世襲制)ー近代(メリトクラシー)ーポスト近代(ハイパー・メリトクラシー)」の文脈の中での妥当性はあるだろうが、メリトクラシーの定義が「世襲制といった身分の評価ではなくその人の能力(メリット)が評価される」であることを考えれば多元化した能力もあくまで能力の範疇にあり、ハイパー・メリトクラシーで言いたいことも全てメリトクラシーと言っているのと同じであるともいえる。ただ、メリトクラシーの定義の段階で測量可能性などすでに無理な論調もあるので、その妥当性は白黒付けがたいところがあると思う。

尚、この能力観についてデータで実証してる部分がありますが、正直言ってそのデータからは何も語れない気がした。本田氏本人も認めてますがやはり実証面での論の進め方は強引です。
実証科学としての価値は低いが・・・ ★★☆☆☆
本書の分析は確かに甘い。因果関係と相関関係をはき違えては勿論ないが、しかしそれでは、統計データと仮説命題とのリンクが牽強付会を逃れ得ない。ただし、一種の研究エリアを構築したという観点からは、ネーミングについては今一歩だとは思うが、「ハイパーメリトクラシー」という課題設定は優れていると思う。本書は、処方箋を期待するより、問題をあぶり出した警句の書と考えるべき。人間は準拠枠を作らなければ分析枠を作れないので、肯定批判を含め「ハイパーメリトクラシー」という準拠枠を踏まえた今後の研究の深堀を期待する。要すれば、「ニート」とか、最近だと「ネットカフェ難民」という概念の「発見」が政策論議に結びついたように、この「ハイパーメリトクラシー」という概念が、どのような政策論議を誘発するか、あるいは著者が誘発させるかが見物ということ。
『若者と仕事』よりは良い。 ★★★★☆
この本の内容
序章と第6章を見ればわかるが、私なりにまとめてみると、現在の日本ではハイパー・メリトクラシー化が進んでおり(知識の習得より、個人の人格などが重視される)、それにより個人が生きにくくなったり、少子化になったりと、いろいろ不都合が生じている。このような事態を打破するためには、「専門性」を身につけるなど、ハイパー・メリトクラシー化に抵抗すべきだ。
評価
長所―なかなか興味深いデータが多い。『若者と仕事』よりは緻密(なぜ専門性を求めているのかがわかる)
短所―(1)データのほとんどが意識調査であることが問題。(2)「専門性」に関する疑問。(3)データと私の実感が違う(一例を挙げると、ポスト近代型能力は以前から求められたのでは?)。
以上、長所星5つ、短所で1つ減らして、星4つ。
教育学も終わりかな ★☆☆☆☆
どうも多様性を知識に限定してしか考えられないようである。
またかなり結論ありきの調査に思えて仕方が無い。
問題は、今のような教育の仕方を続ける限り、知識の階層化=多元化となってしまうことなのではないか。

本当の多元化とは、個人が自分の得意なこと(知識では分類されない)を見極め、
それを常に意識しながら最大限発揮し、
それを更に高めるための知識・スキル・思考法を身につけ、
同時に社会に役立つ方法を見つけ、それで稼ぐ方法を見つけ、
かつ他者の得意なこととシナジー効果を発揮することである。
フラット化=多元化にならなければならない。

このことを真剣に考えた上で教育大改革をやらなければならないのではないか。