アメリカでベストセラーらしいが
★★★☆☆
アメリカのベストセラー。2006年末にいろいろな書評で絶賛されていたので(若島正、巽孝之、小池昌代、、、)読んでみた。
ホメイニ革命が起こった後、イランでは自由に小説を読むことも難しくなり、どのような作品も、イスラムの教理にあわせて教条的に読むことを求められることになった。ジェイ・ギャッツビーは堕落した文明が生み出したろくでなしである、とか、デイジー・ミラーは男をみだりに誘惑する悪魔である、とかね。そういう空気に侵されたテヘラン大学で英米文学を教えるナフィーシーさんは、そういう風潮に反発を覚えて自由に小説を読むための読書会を毎週ひらくようになる。そこで、『ロリータ』、『グレート・ギャッツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』なんかを読んで、みんなであれやこれや話をする。「やっぱり文学っていいよね」って。そりゃそのとおりで、イスラム教的な解釈を強制されながらギャッツビーを読むくらいなら、交通標語でも朗読してた方がよっぽどましである。解釈を強制されるとのはある意味楽ちんなんだけどね。日本人でも「国語は決まった答えがないから嫌いだった」というような人もいると思うし。しかし、文学テキストを解釈するという訓練は、答えがないことに耐える訓練でもある。そして、その忍耐力は、実は世の中では大変実用的なのである。
さて。
と、いうことで、文学の力強さのようなものを描いているということで、文学関係者には評判がいいのだな、と合点がいった。また、舞台がイランだから、アメリカ人は「やっぱりイスラム原理主義ってだめよね」っていう感じでおもしろく読むのだろうね。しかし日本人の一般読者向けにはアピールがちと弱い気はする。
あんまり関係ないけど、アメリカでこの間イラン人と仕事をした。とても合理的で素晴らしいビジネスマンだったよ。
いかにもアメリカ人好みのテーマだが‥‥
★★★★☆
イランの現実の不自由さを垣間見ることだけを目的に本書を読むとしたら、それは誤っているといわねばならないだろう。それは自らが置かれた(置かれる可能性のある)状況に対して、あまりに無自覚である。むしろ著者が語る革命やイラン・イラク戦争の体験は、イランと同じ近代世界に生きるわれわれの判断能力のあやふやさ、「夢」の非合理性や残酷さ、愚かさを自覚し自省するために読むべきである。
世の中には戦争や革命を通して変革を夢想する人々がいる。戦前の日本然り、数々の粛清を伴ったイスラーム革命、そして8年間に及ぶイラクとの妥協なき総力戦然り。今も戦争を通じて現状の打開を夢想する「フリーター」が、日本にはいるそうだ。その非合理性と愚かさを知るためには、本書の第2章と第3章の回想は実に有益である。
ところで、本書の著者は秘密の読書会を教え子たちと行うわけだが、実はこれと同じことを無名時代のホメイニーも行い、反体制的な神学を育んだことは示唆的だ。著者は小説を通して、抑圧された現実とは異なる自由の世界を夢想する。ホメイニーも自らが信じる「正しい」イスラームを通じて、堕落と抑圧から解放された神の国を夢想した。著者は過激な学生の人間としての「自然な感情」の欠如を嘆き(「彼は恋をしたことがあるのだろうか」)、ホメイニーも人間として当然の「神の道」からの逸脱を憤る。
このように見ると、著者とホメイニーは一種パラレルな関係にあるのではないだろうか。実際著者は『ロリータ』について、被害者「ロリータ」の側からの見事な読みを提示するが、「ハンバート」は暴君としてしか描かれない。これは著者がいつも指摘する共感の欠如、多様な声に対する不注意の一種ではないのか。このような著者自身の矛盾は、容易に善悪を語りたがる私たちがいかに独善的になりがちかを教えてくれるように思えてならない。
テヘランでロリータを読むことに対する好奇心と想像力
★★★★☆
いやぁ最近「ロリータ」読んだだけに、自分の読みの浅さ、想像力の無さに絶望的になった、これ読んでみて。
「『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある」「つまり彼女は二重の被害者なのだ。人生を奪われただけでなく、自分の人生について語る権利をも奪われている」。
もちろんロリータ目線から物語を捉え直す試みはしてみたよ、でも、テヘランで「ロリータ」を読むほどには切実じゃない。著者はさらにこう畳み掛ける。「ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだ」「ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない」。ぐうの音も出ない。明らかに俺は、“イラン人の人生への好奇心を欠いていたし、みずからの思い描く他者の像にしか興味がなかった”のだ。訳者あとがきには「イスラーム革命後のイランは、生活の隅々まで当局の監視の目が光る一種の全体主義社会となり、とりわけ女性は自由を奪われ、厳しい道徳や規制を強制され苦しんでいた」ってある。そんな社会の中で、自らの状況に擬えて読まれる「ロリータ」なんて、本書を手に取らなければ永遠に想像出来なかった。もちろん「ロリータ」は様々な読み方が出来る訳で、翻弄されるハンバートを老いた英国、手玉に取るロリータを新興国アメリカのメタファーとして読む、なんてのも間違いじゃない。ただ、テヘランでの「ロリータ」の読まれ方を、少しでも、一時でも想像してみる力は持っていたいなぁと思った。日本で生きていると文学の価値なんてどんどん軽くなっていくけど、まだまだ文学の重さ、特権性が存在する国もある。
この本、「ジェイン・オースティンの読書会」とあわせて読むと、読書ってものを通したお国柄の違い、お国柄による文学観の違いを感じることが出来て面白いかも。
「文学の力」を深く考えさせる書
★★★★★
イラン革命後、イスラム原理主義が支配するテヘランで、英文学者の著者は優秀な女子学生だった教え子を集めて、ナボコフ『ロリータ』やオースティン『高慢と偏見』などの秘密の読書会を行う。倒錯的な中年男が12歳の少女を陵辱する不愉快な物語を、なぜ若い女性たちが必死の思いで真剣に読むのか? それは、実は『ロリータ』が奥行きの深い文学の傑作であり、「他人を自分の夢や欲望の型にはめようとする」(p52)我々人間の深い病理を告発しているからである。そして『高慢と偏見』は、「他者を〈見る〉能力の欠如」「他者への盲目性」が、ヒロインのリジーのような最良の人間にさえありうることを示し、平凡な日常生活の中にこそ「生きることの本当の難しさ」があることを教えるからである(p432)。
文学の本当の力は、それが「複雑なものや規則からはずれたものを読み解き、理解する能力」を養い、「自分たちの白黒の世界に合わせて、世界のもつ多様な色彩を消し去ろうとする傾向」に強く抵抗する点にある(p378)。「私たちがフィクションに求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」(p13)という著者の悲痛な言葉は、過酷な現実にあえぐイランだけのものではなく、普遍性のあるメッセージとして我々の心に響く。
書を読むことの意味を今一度かんがえさせられる良書
★★★★☆
著者は米ジョンズ・ホプキンス大学教授。母国イランに暮らした時代に、ひそかに有志の女子学生たちとともに「退廃的」西洋文学と取り組んだ読書会の日々を綴ったノンフィクションです。
時代は1979年のイスラム革命からイラン・イラク戦争を経て90年代半ば過ぎまで。宗教が政治と生活の隅々にいきわたり、著者のような女性たちにとっては特に息苦しく、理不尽な思いを強いられる毎日が綴られていて、500頁近い本書を読み進む私の心も、著者たちとともに果てることのない閉塞感をひしひしと味わうことになりました。
天下泰平の世に暮らす日本人の私が読んだ「ロリータ」や「ギャッツビー」が、厳格な宗教国家に生きる彼女たちによって読み解かれる過程は、大変興味深いものです。
実のところ、上記二つの英語文学を、私はさほど大きな感銘を受けることなく、遠い異国の著名な書物という以上の意味では読むことはなかったのですが、著者たちの読み解きは大きく異なり、自らの暮らしの中に解消しながらの読書作業となっています。
例えば「ロリータ」の語り手ハンバートを彼女たちは、「他者を自己の意識の産物としか見ない」男として読み、女性を身勝手な幻想の産物としてしか見られない革命後のイラン(男性)社会と重ねあわせて断じるのです。
無論、書の読み方は千種万様。事実、何人かの男子学生たちがこれら西洋文学を反革命的であると難じる様子も本書には登場します。また全体主義社会に生きる人々と、自由主義に生きる人々の受容体(レセプター)にも差はあるでしょう。本書に描かれる「読み」が唯一絶対のものではありません。
それでも書物を自己の血と肉にしていく姿勢には大いに学ぶものがあります。
「小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ深く吸って。それを忘れないで」(156頁)。
学生たちに語りかける著者のこの言葉がとても印象深い書です。