二億円のドーナツ
価格: ¥0
北埼玉から東京へ通勤する高橋は、駅隣接の自宅を二億円で売却する話を持ちかけられる。売却に乗り気な妻、反対する地元商店街の会長、自然保護団体。不敵な不動産業者、自治体をも巻き込む大掛かりな論争に発展。そこに自分の遺品を探して欲しいと地元の名士の分身が現れ、事態はより複雑に。地方の発展とは? 家族にとって幸せな場所とは? 深刻さを増す地方の問題をコメディタッチで描く。
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「王子が言うとおりだとするとよう」
背後から追いついてきた安達が高橋にいきなり話しかけ始める。
「大切なものが目に見えないなら、俺たちの周りにあるものは全部意味ねえってことになるなあ」
今の彼にとって王子とはイギリスのウィリアム王子でも、東京北区の駅でもない。『星の王子さま』の有名な台詞に同僚の安達が難癖をつける。四歳になった息子の寝かしつけに良い絵本はないかと言われて、育児の先輩として高橋が本を貸したのは三日前だ。
「ラスト近くの台詞なのに、もうそこまで読んだ?」
「本の帯に書いてあった。帯紙なんてよく捨てないでとってあるな、俺ならソッコウ捨てる。で、王子の問題発言どう思う? お前が大切にしている帯紙も無意味だって言ってんだぜ」
「別に大切にしているわけじゃないけど。このあと本編を読めば意味がわかるんじゃないかな」
高橋は当たり障りのない回答をする。夜が明けたばかりの早朝に会社の同僚と『星の王子さま』について議論する気力はない。
「三月なのに寒いぞ、ここは。東京より断然寒い」
安達がコートの襟を立てる。
「赤城おろしって言うんだ」
「赤城って群馬だろ、ここは埼玉だぞ」
「利根川を渡ればすぐ群馬県だよ。風に県境は関係ない」
東京の会社へ通勤するために、埼玉県最北端に位置する広山市の広山駅に向かい、高橋と安達は駅前のロータリーを並んで歩く。駅前には広山市のマスコットキャラクターである『玉ちゃん』がくるくる回っている。広山市の名産である玉葱から考案されたゆるキャラだ。玉葱頭についた大きな両耳も玉葱の形をしていて、あまりに有名な鼠のキャラクターに似ているし、少し前に流行ったアザラシと同じ名前なのもどうなのだろうと思ったが、いつのまにか正式に決まり、このオブジェが駅前に設置された。着ぐるみも用意されているのだろう、お目にかかったことはないけど。
玉ちゃんの背後にあるロータリーの中央にの銅像がある。昔広山市内で採掘されていた広山石の普及に努めた人物で、地元出身の数少ない偉人だ。
「こんな寒いなら、寒いって家を買う前に言ってくれよ、故郷と同じでお前は冷てえな」
昨年、安達は東京の墨田区からこの広山市に引っ越して家を建てた。
ふたりで駅舎の階段を上る。広山駅の駅舎は国会議事堂の形をしている。議事堂の形をした駅舎が線路を覆い、本物の国会議事堂だったら両院に当たる部分から地上に向かって長い階段が伸びる。足が伸びた国家議事堂が線路を跨いで立っているようだ。国会議事堂の建設に広山石が使われたのが縁でこのデザインが採用された。計画を聞いたときは冗談かと思ったが、実際に完成してみるとただの冗談ではなく、悪い冗談に見える。宙に浮いた国会議事堂はバランスが悪く、地方都市の風景に全くあっていない。ラブホテルの屋上にある自由の女神みたいだ。大袈裟な建物の割に内部には売店が一軒あるだけで、他に店舗はない。近所の商店街が大反対した結果だ(商店街の人達にとっては成果か)。
改札を抜けてホームに降りると冷たい風が吹き抜ける。子供の頃からずっと住んでいる高橋でも、この時期の早朝はさすがに寒い。
「始発だから座って通勤できて、おまけに土地も安いとお前が自慢するから借金して引っ越してきたんだぞ」
「誰も自慢していないよ」
安達の強引な苦情に高橋は弱い反論を試みる。
「お前はいいよな。駅前にでっかいお屋敷と庭があって。売ったらすげえ金になるんじゃないのか」
コートのポケットに突っ込んだ掌で、安達が線路の先にある高橋家を指す。
拳銃でも隠していそうな形をした安達のコートの先には、高橋家の庭に立つ銀杏の樹がある。高橋家は線路沿いにあるので駅のホームから樹がよく見える。高橋が子供の頃にはもう立派な樹に成長していたが、その後も順調に伸びて、今では家の屋根より高い。秋には庭を黄色に彩る葉は早春の今はすべて落ち、いくつかの寒々しい枝が空を刺している。
「確かに広いけど、我が家はボロボロ。屋敷と言っても幽霊屋敷だ。こんな田舎の土地は高値で売れないよ」
「でもよ、駅前にショッピングモールを建設する話があるらしいぞ」
「子供の頃から再開発の話だけはあるよ。とっくの昔に干からびた話だけど、だれも片づけないから、たまに誰かが見つける」
「そうかぁ? うちのカミさんが近所で話を聞いたそうだ」
「ふうん」
気が抜けた肯きを高橋が見せる。広山駅始発の電車がゆっくり入線してきた。広山駅は車輌基地があるので、始発電車が多い。ラッシュアワーに差し掛かる時間帯なのに高橋らは楽に座れた。
今頃次の駅では残った席を確保するためにサラリーマンと学生が列を成しているはずだ。この列車には座れないのを予測して、次の列車に座るための列までできているに違いない。ここから都内まで二時間近くかかる。ゆっくり座って通勤できるかどうかは一日のはじまりを大きく左右するからわからないでもない。
高橋がそんな熾烈な争いに加わらなくても済むのは、間違いなくご先祖様が土地を残してくれたからだ。いくら土地が安いといっても、同僚の安達はマイホームを買うために自分と同じぐらいの安月給には不釣り合いのローンを組んでいるはずだ。自分が安達だったらマイホームを建てる勇気をもてなかったと思う。
若い頃は終電も早く、広山に住んでいるのが恥ずかしかったが、年を経て所帯をもつ年齢なった今は見栄より実利が大事だ。おしゃれな街よりも、腰に負担がかからずに座って通勤できる方がはるかにありがたい。
もちろん座って通勤できて、かつおしゃれで便利な街だったらなおいいけど、書割みたいな国会議事堂風の駅と田畑吾郎の銅像が立つ街におしゃれは期待できない。
でも、さっきショッピングモールができると安達が言っていた。
「なあ、さっきの話……」
隣の安達は大口を開けて、鼾をかいて寝ていた。