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哀しみアプリ

価格: ¥0
カテゴリ: Kindle版
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システムエンジニアの健一は突然刑事から電話をもらう。妻千尋が渋谷で車に轢かれた連絡だった。子育て中の千尋はなぜ渋谷にいて、どうして轢き逃げに遭ったのか? 残された娘と懸命に暮らしながら妻と事故の謎を探る。ネットの力を使って犯人を見つけようとする健一の前に意外な事実が。家庭と仕事を両立する普通の男が織りなすミステリー。

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     1

 日曜日の昼下がり、柏木健一は妻の千尋と娘の藍と一緒に近所の公園へ出掛けた。
 空は晴れているのに公園は暗かった。見上げるとビルの長い影が公園に落ちていた。この辺りは再開発地域で、短期間に次々と伸びた高層マンション群が公園を取り囲んでいる。新しい住民の需要を満たすために、マンションと共にこの公園も整備された。健一たちの自宅は豪華な高層マンションではなく開発に取り残されたとても古い集合住宅だが、公園は誰にでも平等に開放されている。
 四歳になったばかりの藍がブランコに向かって駆け出した。あいていたブランコに座り鎖を両手で掴み、小さい体を必死に揺する。重心移動がまだうまくいかないらしく、先へ進もうか戸惑っている人みたいに藍の体はぎこちなく前後に傾いた。
 健一はベンチに座って、藍を眺めた。健一の横に千尋が座る。端正な千尋の顔を見ていると、この人が自分の妻だと今でも時折信じられなくなる。他のパパたちがちらちらと千尋の顔を見て頬をゆるめ、横に座る健一の顔を見て何でこの男を選んだのかと顔を顰める。
 思い通りに動かないブランコに苛ついたのか、ブランコから飛び降り、藍が隣の滑り台を駆け上がる。
「パパも来て!」
 滑り台の上から藍が力強く手招きする。健一は肩をすくめる仕草を千尋に見せて立ち上がり、滑り台に近寄る。FRPで出来た派手な原色の遊具は、陸にあがったカラフルな水棲恐竜みたいだ。恐竜の尾にあたる青い階段を健一は昇る。恐竜の背中には子供たちがひしめき合っていた。遊具の壁に備え付けられた透明な半球から地上の風景が湾曲して見える。
「パパも滑ろうよ!」
 藍が叫んだ。赤ん坊の頃から藍は声が大きい。藍は滑り台にもう座り込んでいる。
 柵を伝って藍のところへ行こうとすると、前方に小さな男の子がよたよたと歩いていた。二歳前後だろうか、足元がまだ覚束ない。男の子は手をついて段差を何とかよじのぼり、藍の背中に近づく。これはまずいことになりそうだ。健一は先を急ぐ。
 先に滑ろうと、男の子が後ろから藍の肩を掴む。
「藍が先!」
 藍が振り向き、金切り声を上げる。下にいる親たちが一斉に藍の方を見上げた。藍の顔が怒りに変わり、青空をバックに紅葉のような手を挙げる。健一は子どもたちをかき分けて、藍の許へ急ぐ。振り下ろされた藍の手を、男の子に当たる前に何とか押さえる。手首を掴む健一を藍が睨む。
「先に滑っちゃおう」
 健一は今にも泣き出しそうな怒れる娘に笑顔を見せた。嫌がる藍を膝に乗せて、健一は斜面を滑った。螺旋式の滑り台はおとなには狭く、健一は途中で何度も腰を打つ。地面に足がつくと、腰の痛みにめげずに藍を抱きかかえて千尋が座るベンチへ連れて行った。
 千尋の前で藍は下を向いて座り、地面を指でいじっている。不服そうだ。とても不服そうだ。千尋は健一の顔を見て首を軽く傾けた後、しゃがんで藍に話しかけた。
「藍、男の子さ、藍よりずっと小さかったよね」
「だって、藍の方が先だったもん」
 藍が横を向いた。
「早く滑らないからよ」
 子供相手にも千尋は甘やかさない。
「パパがもっと早く行けばよかったんだよね」
 おざなりの言葉で健一がとりなすと、千尋と藍の両方が怖い目を向けた。
「藍、帰るよ」
 千尋が言った。
「もっと遊びたい」
「仲良く遊べないなら帰る」
 千尋は引かない。
「遊びたい! 遊びたい!」
 藍は地面に大の字になって倒れ、手足をバタバタさせた。周りの親たちが再び藍を見る。随分元気で我儘な女の子ね、と思っているだろう。それから千尋の美しい顔と比較して、きっと父親の遺伝子が色濃く反映されたんだと推し量るに違いない。
 藍は涙を流して泣き喚いている。
「じゃあ、もう一回だけ滑ろうか?」
 健一の中途半端な妥協案に、ふたりの女はまたぎろりと睨んだ。
「遊びたいよね。だけど公園はずっといる場所じゃないの。公園に入ったら、いつかは必ず出て行かなければいけないのよ」
 千尋は地面に座り、藍に顔を近づけた。真剣な思いが千尋の瞳に宿る。四歳になりたての藍には難しすぎる説明だ、余計に泣き叫ぶだろう。
 健一の予想に反して、藍はこくりと肯いた。
「そのかわり桜を観て帰ろうか」
 ロングスカートの裾についた土埃を払いながら、千尋が立ち上がった。
「まだ早いんじゃないかな、来週ぐらいに咲き始めるらしいよ。それに桜の木この辺にあったっけ」
「この公園の外れに一本だけあるのよ」
 涼しい顔をして千尋が言った。
 藍を真ん中にして、健一と千尋と三人で手を繋ぎ、桜の木まで歩いた。藍の機嫌はすっかり直っていた。健一は藍の右手をぎゅっと握り、千尋も藍と手を結んだ。三人はしっかりと繋がっている。地面に落ちる影はMの形をしていた。
 公園の外れに桜の木はあった。いつも通る入り口とは反対側だったので今まで気が付かなかった。
 桜の木の周りには、ブルーシートを敷いて酒席を囲む酔っぱらいも、恋を語るカップルもいなかった。それもそのはず、健一が言ったようにまだ桜は咲いていなかった。健一ら三人は、花が咲いていない桜の木を見上げた。枝振りがよく、たくさんの枝が無数の複雑な図形を拵えていた。大きく膨らんだ蕾は隙間から濃いピンク色をのぞかせ、ある真実を秘めた果実のようだ。
 見上げたまま、健一は隣の娘をちらと見た。ぽかんと口を開けて、枝を見上げている。熟れた果実のように蕾が口の中へ落ちてくるのを待っているみたいだ。反対側にいる千尋は上を向きながら、何かを祈るように目を瞑っていた。視線に気づいて千尋が目を開け、健一の顔を見て笑い出す。うがいをしているみたいに健一も口を開けていた。
「やっぱり早かったね」
 顎を戻して、健一が言った。
「ぴったりよ。こんなにぷっくらした蕾はなかなか見られないわ。テレビでも中継しないし。でも、一本だけで寂しそうね」
 千尋が桜の気持ちに寄り添う。
「鳥の落とした種から芽が出たのかしら」
「ソメイヨシノって種子では増えないらしいよ」
「この木は天涯孤独なのね、私達がそうだったみたいに」
「でも、今の僕らは天涯孤独じゃない」
 力強く健一は言った。
 健一ら三人は手を繋いだまま、もう一度桜の木を見上げた。
「また今度観に来ましょう」
 見上げながら千尋が言った。ただでさえ美しい千尋の横顔は早春の陽を浴びていっそう輝いて見えた。
「そうだね、また今度」
 健一が応えた。
 だけど、その「また今度」は永遠にやって来なかった。