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『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)

価格: ¥15,185
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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新鮮! 「パラボレーであるたとえ」 ★★★★★
 「パラボレーであるたとえ」という観念が、新鮮だった。「パラボレーであるたとえ」の特徴は大きく分けて二つある。一つは、物語性があること、もうひとつは、異常な要素が含まれていることだ。この要件を満たす「たとえ」の一つに、隣人愛をとく「サマリヤ人の話」がある。加藤氏によれば、半殺しにされたユダヤ人は、昔の日本における「村八分」の状況に立たされていたのであり、このユダヤ人を先に通った二人のユダヤ人が助けようものなら、この二人もまた、半殺しにされたユダヤ人と同じ憂き目を見ることになる、……要するに、サマリヤ人が半殺しにされたユダヤ人を助けたのは、「村八分」のユダヤ人とかかわろうが、異国人である彼は、なんら身の危険にさらされはしなかったからなのだ。このような著者の見解に触れると、たとえ自分もまた、「村八分」の憂き目に遭おうとも、半殺しにされた同胞を助けることこそが、真の愛だったのではないか、という考えが頭に浮かぶ。もっとも、それは、人間には出来ないことのように、私には思われるのだが。
 話が飛ぶが、太宰が何度も繰り返し語った話に、難破した水夫の話がある。この話は「惜別」において「周さん」が語った「譬話」として登場している。この「譬話」にもまた、物語性があり(難破した水夫が、燈台守一家の幸福なひと時を守るために命を落とす)、異常な要素(難破してしがみついたところが、灯台の窓ぶちである、というのは異常。灯台の窓ぶち自体がすでに陸地。そこまで届く波が現実に存在するかどうか。この指摘は小野正文氏がすでにしている)も含まれる。水夫の話もまた、「パラボレー」的な「譬話」なのである。ところで加藤氏は、「パラボレーであるたとえ」はイエスの独占物であるという。イエスの独占物である「たとえ」の要件を水夫の話は備えている。とすれば、こうは考えられないか。太宰は、水夫の話によって、自らが偽のキリストになることを暗に表明していたのではないか、と。
聖書解釈の地平を拡げる可能性を示す ★★★★★
本書の目的について、冒頭で著者は次のように述べている。「本書は、新約聖書に記されている「たとえ話」について理解を深めるための入門書である。「新約聖書のたとえ話」は、つまるところ「イエスのたとえ話」である。新約聖書では、イエスの口による以外に、たとえ話は一切かたられていないからである」(p.7)。こうした視点から、本書は主にギリシア語でパラボレー(parabole)と呼ばれる形式のたとえ話のいくつかを例として取り上げ、共観福音書の文脈上でそれらが有している役割について考察を加えている。特に「隠喩」が有する拡大的な創造性と、「パラボレー」の持つ破壊的な創造性の両面からの分析を通して、共観福音書の「たとえ話」の本来的な衝撃の強さを再現しようと試みていることは大変興味深い。
言うまでもないが、本書はイエスのたとえ話についての「唯一の正しい理解」を示しているわけではなく、解釈の可能性の一つを提示しているに過ぎない。しかしながら本書がパラボレーについて示す解釈方法は、古代社会においてイエスの伝えたメッセージの持つ鋭さを、現代社会に生きる読者がより鮮明に自分のものとする可能性を示すものであると言うことができる。その意味で本書は、イエスのたとえ話についての「解答」ではなく「問題提起」として、大きな意味を有していると言えるであろう。
新書版の入門書という限られた条件の中にありながら、たとえ話という視点を通して、イエスのメッセージに対する新たな想像力を喚起してくれる一冊である。
なお本書の構成は以下の通り。はじめに/ 1.イエスの立場、福音書の立場/2.「隠喩」と「たとえ話」/3.神への愛と隣人愛-「サマリア人」のたとえ話/4.救われる人間とは-「放蕩息子」のたとえ話/5.律法と現実-「宴会への招待」」のたとえ話/6.「たとえ話」の秘密-「種まき」のたとえ話/あとがき
前後の関連で読んでみると ★★★★★
『聖書』の中の逸話はしばしば断片として独立した形で取り上げられがちです。
しかし、本書はある逸話を前後の文脈の中において解釈を試みています。
また、マタイ、マルコ、ルカといった共観福音書の中の逸話の比較を行い、
各共観福音書の性格を浮き上がらせています。
加藤氏の野心作だと思いました。
「たとえ」で語るイエスの言葉の新しい解釈にはシビレます ★★★★★
これまで加藤先生は新約聖書全般に関する概説のようなものが多かったのですが、今回は解釈の冴えといいますか、驚きの解釈をみせてくれます。例えば有名な「良きサマリア人」の物語。普通は「隣人愛を実践しましょうね」という意味に解釈されてきました。しかし、本当にそうなの?と加藤先生は静かに解釈を進めるのです。

だいたい、イエスがこのたとえを話すキッカケとなったのは、律法学者の「何をすれば、私は永遠の命を受け継ぐでしょうか」という問いかけです。しかし、この「受け継ぐ」は一人称単数なんだそうです。普通、ユダヤ教というのは共同体としていかに救われるかを追求してきました。しかし、この律法学者は自分が救われることが中心的な関心事であり、そうした場で語られた「たとえ」なわけです。イエスは逆に「どう聖書を読んできたのか」と問いかけますが、律法学者の答えは「全力をつくして神を愛し、隣人を愛することだ」というものでした。その文脈で考え、さらに「良きサマリア人」の直後に置かれている、これまた有名な「マリアとマルタのエピソード」を考えると、実はイエスが云いたかったのは「神を全力で愛することと、隣人愛のどちらが大切か」という問題で、神を全力で愛することが、隣人愛よりも上だということかもしれない、というんですね。こうした例を「放蕩息子のたとえ」「宴会への招待のたとえ」「種まきのたとえ」などでも読ませてくれます。