【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:郷原信郎/著 出版社名:筑摩書房 シリーズ名:ちくま新書 803 発行年月:2009年09月 関連キーワード:ケンサツ ノ セイギ チクマ シンシヨ 803 けんさつ の せいぎ ちくま しんしよ 803、 チクマ シヨボウ チクマシヨボウ 4604 ちくま しよぼう ちくましよぼう 4604、 チクマ シヨボウ チクマシヨボウ 4604 ちくま しよぼう ちくましよぼう 4604 理学部出身、鉱山会社を辞めて独学で司法試験に合格した「変わり種」が、さしたる動機も思い入れもなく、無理やり引きずり込まれた検察の世界。そこで目にしたのは、刑事司法の「正義」を独占してきた検察が社会・経済の構造変革から大きく立ち後れている姿だった。談合事件やゼネコン汚職などで「組織の論理」への違和感に悩んだ末に辿り着いた自民党長崎県連事件。中小地検捜査の常識を超える「長崎の奇跡」だった。こうした経験から、政治資金問題、被害者・遺族との関係、
小沢無罪論の急先鋒弁護士が、検察制度の問題点に迫る
★★★★☆
【内容】
◆検察と刑事司法制度の特殊性
■日本
・密室での取調べの結果得られた詳細な自白を基に、職業裁判官によって緻密な事実認定が行われる
・個々の事件の処分が適正かどうかは、上司の決裁と上級庁の監査によって組織内でチェックされている(「すべての事件は法と証拠に基づいて適正に処理されている」)
同じ法曹資格者による検察官の集団である特捜部が逮捕から起訴まで、すべて自前で行い、しかも、検察が組織として起訴を了解している事件について無罪の判断をするのは、裁判所としても相当な覚悟がいる。(本文103p)
■アメリカ
司法上の認定事実(≠実体的真実)の確定が目標
・黙秘権は保障され、供述聴取には弁護人の立会も認められる
・刑事免責、司法取引などによって、一定の範囲で実体的真実の追求を放棄してまでも一部の者の刑事責任の追及が図られる
◆検察を取り巻く環境変化
・贈収賄の個別摘発という”悪党退治”から、広範囲に影響を及ぼす経済検察(政治資金規正法)への展開
・検察審査会の機能強化と裁判員制度によって、”検察の正義”は相対化され、説明責任が新たに発生する
◆特捜部の体質を変えるには
特定の人物に狙いを定め、それを「悪者」とするストーリーを設定して、大規模捜査班を編成して敵と対峙する、「上命下服型・対決型」の操作から脱却し、個々の検事の主体性を尊重し能力を最大限に引き出す柔軟で機動的な捜査班の編成に転換する必要がある。それによって、捜査対象側の協力も得て違法行為の実態を全体的に客観的に明らかにする操作を行うことも可能になる(本文167p、終章「長崎の奇跡」でその成功例が示されている)
【評価】
検事資料改竄事件が、正義を独占する検察システムの重大な誤謬を示唆することは、本書を読めば明らかだろう。だからといって、「証拠隠蔽・調書捏造は日常茶飯事だ」「鈴木宗男は冤罪」というのは妥当ではない。著者も特捜解体論は取っていないことに注意したい。
社会的役割を終えた特捜検察
★★★★★
西松事件は「政治とカネ」の問題として繰り返しメディアに取り上げられ、国会が機能停止状態なることもあり、また民主党党内人事においても多大な影響を与えています。繰り返し報じられているものの報道内容は検察の記者発表を垂れ流すだけで全体像を評価するものは皆無でした。事件を俯瞰でき、公正な評価をしている出版物は無いかと探していたところ、本書に行き当たりました。著者は自民党長崎県連事件で検挙実績をもつ元東京地検特捜部次席検事です。
ジャーナリストの書いた本とは一味違い、いかにも法律家が書いたのであろう緻密な文体はやや読みにくい反面、法律や捜査の評価などデリケートなテーマには相応しいものでした。従来の特捜検察の捜査手法や社会的役割は、社会・経済・政治の環境変化に対応できず、組織存続を自己目的化してしまい迷走しているように見えました。本書では西松事件だけでなく、ロッキード事件を始め、日歯連事件、ライブドア事件、村上ファンド事件、長銀事件の特捜検察の顛末と捜査の評価を客観的に示されており、いままで特捜がやらかしてきたことがつまびらかに記述されています。犯罪事実を明らかにして反社会性が明白な行為を行った「犯罪者」を社会から排除するといった分かりやすい「検察の正義」は制度疲労を起こし、歴史的役割を終えたのではないでしょうか。
日々の検察捜査や組織構造に何かしら疑問を感じている方が読まれると、問題の論点が整理され、関連報道の偏りや矛盾にも気がつくことができます。良書だと思います。
検事という仕事
★★★☆☆
前半は中々興味深く、特に第1章は結構感動的ですらあったのだが、後半がやや専門的な記述が増えてきて、やや退屈だった。最終章の「長崎の奇跡」も、当事者たちにとっては多分感動的な話なのだろうが、どうもよくある予想通りのストーリーで、それほどでもなかった。ちょっと自慢話めいているのも、微妙なところだ。
普段あまり紹介されることの少ない、検事という仕事の内容に触れているので、法曹志望者には有益であろう。弁護士志望の著者が、上からの圧力により強引に検事にならされた経緯などは信じがたい気もするが、今でもあることなのだろうか?
特捜検察に正義はない、また存在意義はない
★★★★☆
著者は、理学部出身、民間企業を退職し独学で司法試験に合格、検察官に任官、さらに23年後に退官したという異色の経歴の持ち主だ。
自らの検察OBとしての経験に基づき、検察の問題点を指摘し痛烈に批判している。特に特捜検察の組織、体質、捜査手法に大きな問題があるということが明らかにされている。著者も、検察官として特捜部の応援をした際に幻滅したという。贈収賄、粉飾決算、株取引などの経済事犯を扱う特捜部の検事達は専門知識がほとんどないということに驚くというより呆れるしかない。
刑事部の刑事事件は一人の検事が責任を持って起訴か不起訴を決定するのに対して、特捜部は集団で取り組む。とは言ってもチームワークや情報共有などはなく、特捜部長などが作り上げた筋書きに合うような供述を、検事が指示通りに取っていくというやり方だそうだ。警察と違って捜査網を持っていないため、被疑者の親類や知人を片っ端から任意聴取という名の強制取り調べをして、検察の筋書きに合うような供述をさせて、事件を作り上げるという。これが、冤罪が作られる背景であり、かつての特高警察や共産圏の警察を思わせるような捜査取り調べ手法である。
特捜部は、国民から喝采を浴びるような「巨悪を暴き懲らしめる特捜部」を演じることを強く意識しているのだという。これが「検察の正義」の実態だ。
最終章で長崎地検次席検事として取り組んだ自民党長崎県連事件について述べている。それを「長崎の奇跡」と呼ぶのはどうかという気もするが、検察の組織の中では画期的な捜査だったそうだ。しかし、この良い事例は検察の組織の中で活用されることもなく、著者も捜査の第一線から遠ざけられてしまった。事なかれ主義、前例主義の官僚の世界とはこういうものだ。
「検察の正義」再構築を
★★★★☆
東京地検特捜部の元検事が自らの経験を踏まえて検察の問題点を批判している。かつての政界汚職追及型から
現在の経済検察へと転換した検察だが、この転換に対応すべく必要なパラダイムの転換ができていないことが
現在の検察が抱える様々な問題の病巣になっていることが理解できる。
筆者が得意とする経済検察の分野が苦手な人は中盤あたり読むのが辛くなるだろうが、
最終章の「長崎の奇跡」は検察に興味がない人でも「検察版プロジェクトX]のようで面白い。
全体的にちょっと自慢が過ぎるきらいがあるので★はひとつ減としましたが、
「長崎の奇跡」時、検察組織がどう動いたかに特化すれば、よきビジネス書、リーダー論が展開できるように思う。
新書レベルでよいので、著者に次作を期待したい。