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古代中国の虚像と実像 (講談社現代新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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手のこんだサボタージュ? ★☆☆☆☆
中高の教科書や山川用語集レベルの「虚像」をあげつらい、
それも「ありえない」「考えにくい」「はずがない」程度の理由といえない理由を、
恥ずかしげもなく多用する某大学の助教についていくことができませんでした。

某大学ではその程度の「虚像」が最新研究で「わかった」のかと思うと、
出身校ではありませんが将来を心配してしまいます。

売り文句や興味を引く書名でつい購入してしまいましたが、得たものといえば
今後、この作者の著作物は読むに値しないということだけでした。
否定の論理に説得力がある部分とない部分が半々 ★★★☆☆
著者が「はじめに」で言うように、「夢のない話」が続く。歴史は勝者によって都合よく書かれるという性質のもの故、面白すぎる古代中国史の通説も、実証的な批判の対象とされるべきだ。

そういう観点からは、甲骨文字の読解から殷の紂王の精勤ぶりを明らかにし、酒池肉林はなかった、斉は殷の支配下にあったのだから太公望が祖であり得ないのは納得できる。また、夏王朝と殷王朝の王名や系譜、そしてその滅亡の類似性から、夏王朝は殷王朝を真似て後代に作られたものだろう、ということも理解できる。

しかし、冒頭で虚像の代表例とする、始皇帝の死後の謀議について、それがわかるはずがない、と一蹴するのはどうか。謀議の場には二人しかいなくても、始皇帝の死を隠し続ける作業に関わった人はいる。謀議のことだって、調子にのった趙高自身がしゃべったかもしれない。少なくとも凡庸な二世皇帝の即位と趙高の専横という状況証拠はある訳だし。貧農・陳勝の言葉が史書に記録されるはずがない、項羽の最後が伝わるはずがない、といった否定は理由が薄弱だ。

時代が新しくなるほどそういった否定の仕方が増えるのが気になった。
面白く読めたけどがっかりした部分も ★★★☆☆
 個人的には面白かった面もあります。
 「最後まですんなり読みきれる=面白い」という意味でです。しかし、全般的には少しがっかりです。

 酒池肉林が淫蕩の意味ではなかったという説明は、宮城谷氏も小説の中ではありますが、同じようなことを書かれていまして、すんなり違和感なく受け入れられましたが、目新しいとは思えません。
 「夏王朝がなかった」 という断定は「夏王朝はあった」と断定するのと同じ程度に、現状では無意味だと思いました。
 日本で言えば神武が実在したかどうか位にです。
 例えば、史記の殷王朝の系譜と夏王朝の系譜はよく似ているから捏造だという考察は、「あった」と言うのと同じくらい推測の域を出ない。なのでのでなんともいいがたい。
 しかもその考察は、先人に郭沫若氏がいますね。
 全般的に、副題にある「最新研究でわかった」に魅力を感じてこの本を買った人はがっかりでしょう。
 
 「秘密の悪だくみや一農夫の発言等が史書に記録されるわけがない」というのも、それはそうなんですが、日本でも、例えば日本書紀が全文真実で埋め尽くされているなんて誰も考えていないわけで、いまさらそこら辺を突っ込むのは大人気ないかと思います。イザベラ・バードの紀行文じゃないんですから。

 かなり昔の話ですが、万葉集が古代韓国語で読めるとか、竹内文書や東日流外三郡誌といった古史古伝の類が流行ったことがありました。
 「万葉集韓国語説」などは筆者によって解釈が全然異なるし、古史古伝系も内容はハチャメチャなので意に介さなければそれまでなのですが、とはいえ「絶対に違う」と言い切るだけの知識が自分にはなく、モヤモヤとした気分でいた時に、それらを論理的に否定するいくつかの本に出会い、「あ〜すっきりした」と爽快感を感じたことがありました。
 今回も久しぶりにその爽快感を味わえるかと期待して買った私としては「がっかりだけど、甲骨の実験とかためになる部分もあったのだから、まぁ悪い本ではないかな」という感想です。
 
古代中国の虚像…までで良かったんじゃないかな? ★★★☆☆
タイトルに偽りありとまでは言わないけど、虚像であることを指摘するだけで
実像はほとんど指摘されてないので。

「はじめに」でも、“こういう人は読まないでください”なんて色々挙げてる
んですが、じゃあ、誰に読ませたくて書いたのか、さっぱりわかりません。

内容も、前半の第5章あたりまでは一種の推理小説を読むような爽快感もあっ
て面白かったんですが、そこから後の方は、「ありえない」「あるわけない」
ばっかりで、だんだん読むのが面倒になってきました。

まぁ、確かに厳密な学問としては、わからないことはわからないとするのが
正しい態度なのでしょうがないんですけど、「じゃあ実際はどうだったんだよ」
という疑問に一切答えてくれないので、すっきりしません。

もうちょっと、対象とする年代を絞って、否定だけでない深い考察を書いてくれ
た方が良かったように思います。



…三国志まで入れなきゃいけなかったのは、いわゆる“大人の事情”なんですかね。
なかなか面白い本だが、細かい点は少々…… ★★★★☆
 「『春秋』は…孔子が作ったものと言われてきたが、実際には、孔子の死後に弟子か孫弟子によって編纂された可能性が高い。」
 「『左伝』は…戦国時代の前半期の作」
 「『韓非子』は、大部分が…本人の著作とされる。」
 これらの記述を挙げれば、本書あるいは著者に対して「?」と思う人もいるだろう。

 著者は『春秋』や『左伝』以外の資料をよほど疑っているらしく、たとえば孫子について「『春秋』や『左氏伝』などにはまったく記載されておらず実在の人物かどうかすら不明である」とし、墨子についても「実在すら確かめられておらず」とする。しかし、孔子が魯の大司寇にまでのぼったという、やはり『春秋』『左伝』には見えない「説話」はなぜか無批判に採用する。

 著者は、覇者の基準として「大規模な会盟を継続的に主催したかどうか」を挙げ、「春秋時代の覇者を数えると、斉の桓公に晋の十一君をあわせた十二人」とする。しかし晋文公はともかく、襄公以下の十君すべてが「大規模な会盟を継続的に主催した」のだろうか。
 また著者は、孟子が「五人の覇者が誰かを明記しておらず」というが、孟子は覇者としてすくなくとも「桓公」「秦繆公」の二つの固有名は挙げている。

 本書は楚漢期に関する『史記』の記事について再三「文学や講談から採用したと考えるべきであろう」「創作された伝説がそのまま『史記』に記載されてしまった」などと推定するが、なぜか陸賈や『楚漢春秋』という具体名はいっさい挙げない。『三国志演義』については習鑿之『漢晋春秋』の名をわざわざ挙げているのに。

 『論語』泰伯篇の「民可使由之、不可使知之」について著者は、「孔子が一種の愚民化政策を主張したと考える人がいるのだが、それは誤りである。『論語』のなかでは、「可」の文字は義務でなく可能の意味で使われているので、正しくは「民衆は従わせることはできるが、その意味を理解させることはできない」という意味で…孔子の嘆きの言葉である」とする。しかし『論語』には、「父母之年、不可不知也。」(里仁篇)・「仲尼不可毀也。」「言不可不慎也。」(子張篇)などの例もあるのではないか。いずれにせよ、この古い問題について、こうもあっさり断定するのは武断に過ぎよう。

 「臥薪嘗胆」の説話について「『史記』などに記されたもの」というが、「嘗胆」はともかく「臥薪」の話は『史記』に見えない。著者の嫌いな平勢隆郎氏と同じ間違いを、しかもその間違いが指摘された以降にわざわざ犯しているのは不可解である。

 曹操の父が一億銭で太尉の地位を買ったという『後漢書』の記事について、著者は「賄賂の金額が公表されるはずはない」という。しかし原文「貨賂中官及輸西園銭一億万」をみれば、「一億銭」とは霊帝の売官による、いわば公然の料金だとも解し得よう。正式?な売官によるものなら、その額が公表されても別に不思議はない。

 まあ、この手の「ネタ集」的な本に細かい穴がまったく無ければ、そちらのほうが驚くべきであろう。いちいち目くじらを立てる必要もなく、適当に楽しんで読めばいい。多少の知識をもつ読者が眉を濡らしつつ読むならば、相当に面白い本だと思う。
 しかし、信じやすい素人に向けた本とするならば問題なしともしないので、あえていくつか毛を吹いてみた。