【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:岡谷公二/著 出版社名:平凡社 シリーズ名:平凡社新書 488 発行年月:2009年09月 関連キーワード:ゲンシ ノ ジンジヤ オ モトメテ ニホン リユウキユウ サイシユウトウ ヘイボンシヤ シンシヨ 488 げんし の じんじや お もとめて にほん りゆうきゆう さいしゆうとう へいぼんしや しんしよ 488、 ヘイボンシヤ ヘイボンシヤ 7600 へいぼんしや へいぼんしや 7600、 ヘイボンシヤ ヘイボンシヤ 7600 へいぼんしや へいぼんしや 7600 御嶽、天道山、モイドン、神山、そして堂…。信仰の結晶としての森、それは、信仰を形あるものにせずにはいられない西洋人の宗教とは対極をなす、目に見えないものを信じる私たち日本人の信仰そのものである。沖縄にはじまり、済州島にたどりついた、森だけの聖地をもとめての長い遍歴。 第1章 済州島の堂との出会い第2章 韓国多島海の堂第3章 済州島の堂とその祭第4章
神社に社殿はいらない?!
★★★★★
著者は民俗学者である。フィールドワークの範囲が国内に留まらず韓国にまで及んだ。豊富な調査から、神社に関して従来の定説を覆す仮説を打ち出した。
(1)神社の起源は古代朝鮮である
弥生文化は朝鮮半島から渡来した人々がもたらした。稲と鉄という先進文明の担い手だった。神社の成立にも大きくかかわった。
近畿ほかほとんど日本全国にわたって古代の渡来人がかかわった神社が見いだされる。代表的な伊勢神宮、出雲大社。三輪神社、伏見稲荷、八坂神社などの創祀も渡来人のかかわりがある。
朝鮮半島にあって神社に相当するのは堂(タン)である。堂は、儒教を国教とする李朝五百年の間排除・迫害された為、現在その存在はなきに等しい。
(2)神社は元々、死を穢れとしなかった
神社の場所が古墳であることが多い。神社が死を穢れとするのは、仏教伝来以後のであり、本来のことではない。
(3)地霊=地主神は縄張りを持つ
地主神の土地へ別の大きな神が来ると、地主神は追いやられて分社に祀られる。土地の神をいい加減に扱うと怒るので、地主神が正面に祀られ、主神が脇にやられることもある。天照大神が大和の地には鎮座できずに伊勢にまで行かざるをえなかったのは、この経緯による。
(4)神は社殿を嫌う言い伝えがある。
森の一木一草持ち去らないことを守り続けた結果、信仰の結晶として森そのものが神となる。
ところが清浄な森の一部を刈り払って、社殿を設けた時から、信仰の質が変わった。聖なる神の領域に、俗なる人間の秩序を持ち込んだ。
(5)日本人の得意とするもの
神社の起源が古代朝鮮にあるとしても「神道」という宗教は日本独自のもので発展した。
日本人はオリジナルを真似て、それ以上のものに改善する能力が非常に優れている。このことは千年以上前から発揮されている。稲作、文字、仏教、神道とルーツは日本のものでないにせよ、その品質、完成度などは世界に誇れるものだ。
お正月に読んだのが、良かったかも!
★★★☆☆
これぞフィールドワーク、これぞ学識と、読みながら何度
も思いました。参照する事例や文献の多彩さなど密度の
濃い内容に加え、最後は対馬・壱岐の天道山やヤボサ神、
薩摩・大隅のモイドン、そして種子島のガロー山に奄美の
神山と、神が降り来る森の名を畳み掛けられて未だに頭
が整理できないままです。
わが国の古神道、すなわち神社の原型を沖縄の御嶽に
求める著者の探求は、済州島や韓国多島海の堂の考察
にまで拡がります。何故なら御嶽信仰は十二世紀以前に
成立したとは思えぬのに、同時期の本土の神社のような
社殿がなく、そして男性が祭祀者となっていないなど不可
思議なことが多いからからです。その上で、この地域をめ
ぐる文化の伝播、そして人と物の出入りや交流について、
著者の仮説が提起されます。
これは今日の日本史の常識からは、少し外れているよ
うです。その当否はここでは置くことにします。わたしはそ
れ以前にこの間に紹介された、柳田、折口、そして早川
孝太郎など民俗学のパイオニア達の着眼の鋭さに驚きま
した。恐るべし、民俗学というところでしょうか。
さて、お正月は山の上から里に降りてきた神様に感謝
をし、新年の祈りをするものなのだそうです。その時期に
本書を読むことができて、なおさら清々した気分になれま
した。良かったです。
本編と巻末対談の間に見られる微妙なずれは…?
★★★★★
沖縄の御嶽(ウタキ)に魅せられ、長年にわたるフィールドワークにもとづく探求で知られる著者は、日本の神社のルーツを求めて韓国に足をのばし、済州島で「御嶽(ウタキ)」を見出す。それが現地で「堂(タン)」と呼ばれる小さな森の聖地だった。
「堂(タン)」は確かに沖縄の御嶽によく似ている。そして本土の鎮守の森にも…。畢竟、日本の神社のルーツとしての「堂(タン)」が浮かび上がってくる…。こうなると抵抗感を覚えるひともいるだろう。しかし、ここはじっくり踏みとどまって、まずよく観察することが求められると思われる。
もっとも、巻末の谷川健一氏との対談で著者も認めているように、本土の神社と沖縄の御嶽との関係がよくわかっていないのだ(ここがはがゆい!)。著者たちは柳田國男の「海上の道」説を採らず、逆に本土の神社が沖縄に入ったという方向に傾いているようで、肩透かしを食ったような、意外な感がした。著者は谷川氏に遠慮してはいないか…?
【追記】この本と時期を同じくして、沖縄を含む列島各地の聖地のルーツに関して示唆に富む本が出た(『神社霊場 ルーツをめぐる』光文社新書)。併せて読むことで視界が良好になった。余談に属す話かもしれないが、『神社霊場 ルーツをめぐる』の著者は異例なことにその「あとがき」で、本書『原始の神社をもとめて』を併読するよう勧めている(著者どうしが知り合いというわけでもなさそうだ)。ということからも、これら2著作は関連が深いことがうかがえる。
東アジア精神文化を巡る冒険
★★★★★
キリスト教はもとより、仏教や儒教伝来以前の精神文化を巡るフィールドワーク。
朝鮮半島の「堂」、沖縄の「御獄」、多島海を綿密に調査し、原初的な東アジアにおける信仰の形態に迫る。 実際にフィールドワークした成果にもとづくものだから、説得力とリアリティがある。ゆるやかな東アジア精神文化圏の存在が示唆されるのがたいへん興味深い。
フィールドワークの権化のような著者
★★★★★
前著「神の森 森の神」も読みました。
元始神道祭祀の姿を求めて、日本国内の神社を持たない神の森を、
フィールドワークして歩く著者の探究心に感心しました。
著者の紹介する森の聖地を、一度訪ねてみたいと思いながら果たせませんでした。
そしたら・・・
今回は、済州島の「堂(たん)」まで、調べ歩いて報告してくれたのですね。
若狭にまで行きましたが、常神半島やニソの森までは、車でも更に大変な距離です。
著者の旅は、まだ続くそうです。
追いかけたいけど、又先をドンドン越されるんでしょう。