前編と後編とで随分と雰囲気が違います。前編が出版され、好評を博してから10年ほど経って、後編が執筆・出版されたそうです。前編では、主従のでたらめな珍道中を大口開けて笑っていることができたのですが、後編を読み始めると間もなく、笑っていた自分自身の間抜けさ加減をこれでもかという程手痛く突きつけられる羽目になりました。
勘繰りかもしれませんが、作者は、前編の主従を笑う世間の眼差しに深く不満を覚えていたのではないでしょうか。というのも、後編では、まるでドッキリカメラの悪ふざけにゲラゲラ笑っているようなやり方で、沢山の人達がドンキホーテ主従を周到に愚弄するのです。その愚弄する人の側の悪辣さ・趣味の悪さが、持って回った表現で、しかし実は前面に押し出されます。これに対して主従の行動は寧ろそれに翻弄される被害者のものとして描かれています。そんな目でこの主従を見てほしくない、そんないやらしい仕方で彼らをあざ笑ってほしくない。作者の、じれるような思いが強く感じられました。
本当なら作者は、主従の愚行の底を流れているその誠実さ、優しさを、前編の荒唐無稽の中にこそ読み込んでほしかったのではないかと思うのです。そして、読者自身の愚かさを主従の中に看て取って、笑いつつもいとおしく思う気持ちを読者と共有したかったのではないかと思うのです。ところが意に反してそうは読んでもらえなかった。主従を特殊な愚者・狂人としてまるで他人事のように笑うばかりで、誰にでもある人間の悲しさを感じてはもらえなかった。それゆえに後編の主従には、思い迷った屈託が顕著になります。本来作者の意図からすれば言わずもがなであったはずのそれら「人間性」が、語るに落つるとでも言いたくなるほど露骨に表現されてしまいます。
狂気のままだろうと正気に戻ろうと、そんなことにはお構いなしに「騎士」らしい誠実を貫いたドンキホーテ。彼を笑うにはやはり相当の覚悟が要るようです。