白鯨読むなら岩波文庫版!
★★★★★
小説の内容については、いまさら申すべきことはありません。
これから白鯨を読もうと思っている方。どこの出版社の文庫にしようかと迷っている方。
岩波文庫版、新潮文庫版、講談社文芸文庫版と三社を比べた私の感想です。
私は断然、岩波文庫版をおすすめします。
その理由としては
1 ロックウェル・ケントの木版挿絵がすばらしい。
池澤夏樹曰く、この画家と「白鯨」の関係は、「不思議の国のアリス」とジョン・テニエルの挿絵の関係に似ており、
テクストと絵の間に非常な親密さがある、とのこと。
まさに、次はどんな絵が出てくるかと、ページをめくるのが大変楽しみになってくる。
2 捕鯨船の船体や甲板、捕鯨ボートの詳しい図解がついていて、文章だけの説明よりも理解しやすい。
3 何よりも、八木俊雄の翻訳がすばらしい。
「うまい」というのではなく、読んでいて「楽しい」翻訳である。
訳文も流麗で読みやすいです。
やはり、これだけ長丁場の小説(しかも物語のすじと関係ない百科事典的な文章が多い)ですから、
文章が楽しくなければ読み続けるのは苦痛になってきます。
八木俊雄の訳した会話文には何度もひゃっひゃと笑わされました。
Moby Dick , Herman Merville 白い鯨; 鯨の中の鯨
★★★★★
Moby Dick , Herman Merville
「ところで、……」
横羽線を驀進中に、きみに宛てた追伸のことをおれは考えていた、瞬間、客の言った降り口を忘れてしまった。
「ん? 浜川崎、これだ、これっ」
地べたに降りてから結構、僻地まで行ったので、まっ、いい客だった。
アケの朝寝て起きると、Moby Dick がようやく届いた。早速読み始めたが、楽しみなことだ。読書の合間にちょっと比較してみる。
Melville
CHAPTER 1 Loomings
CALL me Ishmael. Some years ago--never mind how long precisely--having little or no money in my purse, and nothing particular to interest me on shore, I thought I would sail about a little and see the watery part of the world.
[A] パヴェーゼ訳
CAPITOLO T Miraggi
Chiamatemi Ismaele. Alcuni anni fa - non importa quanti esattamente - avendo pochi o punti denari in tasca e nulla di particolare che m'interessasse a terra, pensai di darmi alla navigazine e vedere la parte acquea del mondo.
[B] 阿部訳
一章 影見ゆ
私の名はイシュメイルとしておこう。何年かまえ――はっきりといつのことかは聞かないでほしいが――私の財布はほとんど空になり、陸上には何一つ興味を惹くものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった。
[C] 田中訳
第一章 海妖(あやかし)
まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。もう何年前になるか――正確な年数などどうでもよかろう――懐中は文無し同然、陸地ではこれというおもしろいこともないので、しばらく船に乗って、水の世界を見て来ようと思った。
うん、[A]、[B] ともに良い訳だ。パヴェーゼ訳文のリズムには短篇『流刑地』冒頭の一文を想起させられる。[C] 新潮文庫は今日届いた。岩波文庫、阿部知二訳は会話はともかく、地の文にまで「んか」「んか」という調子が頻出して、今一だったので、新潮文庫、田中西二郎訳に期待していたのだが、劈頭の一文を見る限り、失望した。とはいえ、その語源および文献抄は[B]よりはるかに出来がいいし、訳注の作り方は真摯で、学ぶに足る。その彼にしてなぜ、「まかりいでたのは」であり「と申す風来坊」、「などどうでもよかろう」なのだ?原文ではそんなこと言っていないし、言外に含んでもいない。ここまで書くと、おのれの試訳の一端を示さねばフェアではないかも知れない。
[D] ふるみね訳――
《ぼくのことはイシマエルとでも呼ぶがいい。何年かまえに――正確にはどれほどかは問題ではない――財布には数枚あるかなしかで、陸ではこれといって何も興味を覚えそうもなかったので、船乗りになって世界の海原を見てやろうと考えた。》
[E] 八木敏雄訳
第一章 まぼろし
わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。何年かまえ――正確に何年まえかはどうでもよい――財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと思った。
[今夕、岩波文庫新訳・八木訳を入手したので、ここに[E]訳として挿入しておく。以下同断。]
まっ、鯨で言えば、[A] は紛うかたなき〈白鯨〉、[B],[E] はマッコウクジラの類ではあるのだが、はて?、[C] はこれはもうニタリクジラだな。[D]はイルカかシャチか? むろん、読み進むうちに大抹香に変身してくる可能性は[B],[C],[D],[E]、いずれにもつねにあるのだけれども。やはり、ぼくの翻訳の師匠はパヴェーゼだな。まったく隙のない訳しぶりなのだ。これを横目に見ながら、初学者としてはひたすらメルヴィルだけを念頭に翻訳してゆくほかはない。
ところで、原作メルヴィルの第一行CALL me Ishmael.はたったの三語だ。[A]パヴェーゼ訳などはChiamatemi Ismaele. と、接尾辞-miはあるものの、たったの二語に過ぎない。ここは[D]ふるみね訳としてもうんと短く、力強く踏ん張りたいところだけど、「わが名はイシマエル。」で澄ましかえるのも、ちと気が引けるし、まっ、「イシマエルとぼくを呼ぶがいい。」あたりか……
また、この劈頭の一文を八木先生は、
わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。
と、イシュメールに「」をつけていらっしゃる。これはエイハブ=アハブと並んでイシュメール=イシマエルも旧約聖書中の人物であるよ、と読者の注意を喚起する先生らしい親切心の発露かと思われる。[D]ふるみね訳が、
ぼくのことはイシマエルとでも呼ぶがいい。/イシマエルとぼくを呼ぶがいい。
と、開き直りもしくは捨て鉢的響きを発しているのも、旧約聖書中の事跡を反映しているからに他ならない。勢いの赴くところ、エイハブ船長をもアハブ船長と呼びかけかねないけれども、それはいかに同名とはいえ、ジョヴァンニくんにヨハネさんと呼びかけるくらい無理なことだろう。イシュメールくんにイシマエルさんと呼びかければ、振り返りぐらいはするだろうけれども。
結局、[B]、[C]、[D]、[E]、いずれの訳も説明的になって失敗している。それでも、説明の方向性としては[D]が正しいと思う。また、「財布」については、ほんの数頁先で「中身がなけりゃ、財布などぼろっ布と変わらない」という箇所があるから、ここははっきりと「財布」と訳すのがよい。[B],[D],[E]が正解である。それから、船に乗るといっても、イシマエルは断じて乗客となって七つの海を観光しようというのではなくて、身命を賭して船乗りになって、それも捕鯨船に乗り組んで身銭を稼ぎ出すのであるから、ここでもそのように訳さねばならない。その点、パヴェーゼ訳はdarmi alla navigazineと明確である。ふるみね[D]訳も「船乗りになって」とはっきりさせている。[E]訳は「ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと」まるで観光客だ。話にならない。小説の劈頭だというのに、[B][C]訳をつき混ぜたような感じだ。もっと原文に集中してほしい。期待が大きいとその反動も大きいものだ。
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【附録】
いや、いまの[E]訳に対するぼくの評言こそ、新訳本入手に要らぬ苦労をしたせいか、いささか八つ当たり気味だ。八木さんにはいつも何か気がつかされる。「水の世界」なんて、素敵じゃないか。田中さんもそう訳してはいるけれど。ふるみね訳は「世界の海原」か、阿部さんもそう訳しているぞ。
あれこれ諸訳をつき合わせてわかった風なことをいう弊害に落ち込んでもなるまい。初学者のおのれに相応しく、右顧左眄せずに、まずメルヴィルの原文を一字一句直訳してみる、つまりは逐語訳を試みることから始めるほうが、いっそ楽しかろう。blogのいいところは、思いついたら何でも有り――これはぼくの処世方針そのままだ――のところだ。
で、[以下、工事中]
CALL me Ishmael. イシュメールと呼べよ。/呼んでくれ、イシマエルと。/呼ぶがいい、(ぼくを、)イシマエルと。
Some years ago 何年かまえに
--never mind how long precisely ――きっかり何年まえかなんて気にするな/
--having little or no money in my purse,
and nothing particular to interest me on shore,
I thought I would sail about a little
and see the watery part of the world.
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『白い鯨』http://siroikujira.blogspot.com/
『流離譚‐本と絵と見えない恋と』http://ryuritann.blogspot.com/
『雑記掲示板‐恋』http://zakkikeijibannkoi.blogspot.com/
大図説滅びゆく動物 (1980年)
〈『流離譚‐本と絵と見えない恋と‐』http://ryuritann.blogspot.com/から)
(つづく)
Moby Dick , Herman Merville
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で、その後、結局、八木訳、上、中、下をアマゾン・マーケットプレイスを介して、それぞれ三つの古本屋に発注した。昨晩M書店から届いた下巻を開けると、これが阿部訳だ。これからメールして、その対応を見極めねばならない。やれやれまたしても道草を掻いてしまった。
前略
「八木訳」を注文したのに「阿部訳」が届いています。そちらの〈商品の詳細〉にも、「八木敏雄訳」と、明記されているにも拘らず、です。
翻訳を比較・検討しているので、「八木敏雄訳」が必要なのです。早急に発送し直して頂けるものと信じております。
草々
これに対して、たったいまM書店から返信が届いた。
ご連絡を頂きましてから調べましたところ、『白鯨』の阿部訳と八木訳のISBN番号が同一である事が判明致しました。アマゾンはISBNによる商品識別のシステムになっており、当店も書籍データの入力を同方法で行っている為、今回のようなことになってしまったと思われます。本来、同一のISBNの異本はあってはならないものです。
との由で、まったくその通りであるし、「今までに経験の無い事であるとはいえ、確認を怠ってしまい、誠に申し訳ございませんでした。」との一言があったうえに、返金もなされるとの事なので、「幸い良心的な書店に当たった」と、かえってこちらが恐縮してまった。岩波かアマゾンかISBNかに問題があるものと思われる。古書店側の労力など屁とも思っていないのだろう。熱心な読者の迷惑などは歯牙にもかけていないに違いない。ともあれ、八木訳下巻は他の方法で求めねばならなくなった。思わぬ道草を喰ってしまったが、さて、他の書店に求めた上、中巻の方は、果たして大丈夫であろうか?
念のため、アマゾンにも次のように問い合わせてはおいたが。
八木訳を注文したのに、阿部訳が届いてしまった件。返金して頂く事は諒解したのですが、八木訳をアマゾン・マーケットプレースで確実に入手するにはどうすればよいのですか?
岩波文庫『白鯨』の阿部訳と八木訳のISBN番号が同一である事が判明。アマゾンはISBNによる商品識別のシステムになっており、出品者書店も書籍データの入力を同方法で行っている為、今回のようなことになってしまったと思われます。本来、同一のISBNの異本はあってはならないものと私も思うのですが?
遅い昼寝から覚めると、岩波文庫【白鯨】上・中巻が届いていた。コヒーを淹れて、
「やれやれ、やっと着いたか」
と、つゆ疑わず、開けてみると、
「なっ、なんと!!」
上・中巻ともに、阿部訳であった。上巻のF書店、中巻のN書店にも上述のメールを送って、それぞれの対応を見極めねばならない。なお、アマゾンはぼくの問い合わせにも拘らず、音沙汰無しである。怪しからん、と言うべきか。
岩波かアマゾンかISBNかに問題があるものと思われる。古書店側の労力など屁とも思っていないのだろう。熱心な読者の迷惑などは歯牙にもかけていないに違いない。八木訳上・中巻も、他の方法で求めねばならなくなるのであろうか?
深夜の散歩から帰宅すると、F書店から返信が寄せられていた。
遅くなり申し訳ありません。F書店です。お手数ですが商品名をお知らせ下さい。
これに対して、当方からはこう返信しておいた。
F書店THさまでしょうか? これは大変抜かって申し訳ありません。商品名は、《白鯨 上 (岩波文庫) by ハーマン・メルヴィル;八木敏雄》です。
《「八木訳」を注文したのに「阿部訳」が届いています。そちらの〈商品の詳細〉にも、「八木敏雄訳」と、明記されているにも拘らず、です。翻訳を比較・検討しているので、「八木敏雄訳」が必要なのです。早急に発送し直して頂けるものと信じております。》
と、アマゾンを介してお便りを差し上げたつもりでしたが、肝心の商品名が抜けておりましたか。実物で訳者名を確認の上、《白鯨 上 (岩波文庫) by ハーマン・メルヴィル;八木敏雄》を送り直して頂けると大変助かるのですが。
これに対してF書店から
岩波文庫の場合旧作と新作で訳者が違っていても出版時のISBNコードが同じなので今回の事態になってしまいました。こちらの確認ミスです。新作の方は当方の在庫がありませんでした。ご迷惑おかけして申し訳ありませんが今回、ご返金させていただきます。
との返信があった。それに対して当方は、
深夜にも拘らず、早速の返信ありがとうございます。返金してくださるとの由、かえって恐縮です。「岩波文庫の場合旧作と新作で訳者が違っていても出版時のISBNコードが同じ」との由、訳者が違えば中身がまるで違う場合もあります。岩波は翻訳もしくは翻訳者を軽く考えているのでしょうか?《本来、同一のISBNの異本はあってはならないもの》と、わたしも考えているのですが。
これにはすぐに返信があって、
岩波文庫はかなりの確率で同じコードが有ります。当方も訳者を確認して違う場合コメント欄に注釈を入れて出品しているのですが……
さて、残るは中巻のN書店のみだが、これはまだ音沙汰もない。
朝、芥出しのついでに散歩に出て、久しぶりに黒川公園を抜けて、淺川の土手で一服した。どういうわけか、失業の身にかぎって、河原に寝そべって空ゆく雲を眺めたり、水際を覗きこんで日溜りに屯する鯉たちと目線を交わしたりしたくなる。帰りにふと思いついて、駅前のK書店に寄ると、新訳『白鯨』上、一冊だけが奥の棚にあった。早速買い求めて、空いてる片手に持ったまま帰宅した。
《これで忙しくなる。新会社に顔を出すのは明後日にしよう。》
昼近くに、今日初めてデルを立ち上げると、N書店からメールが届いていた。
岩波文庫では2004年の版から訳者が八木敏雄にかわっていますが、ISBN(図書番号)が旧訳本と同一な為、訳者変更に気付かず、阿部訳の註釈を入れないまま出品いたしておりました。残念ながら当方に八木敏雄訳の在庫はございませんので以下のような手続きをいたしました。
■Amazonにて新本を注文しました。(ふるみね様宛直送)明日にはお手元に届くと思います。
……
■結果、ご請求はあくまで当方の阿部訳分のみです。
ぼくもすぐさまN書店へ、「まず、的確、親切なご処置への御礼申し上げます。何よりも中巻・新本を注文していただいてありがたく思います。請求もないとは、かえって恐縮の至りです。ご清栄をお祈りしております」と、返信した。
早めの夕食を済ませてすぐ、N書店がアマゾンに発注した中巻・新本・八木訳がもう届いた。何か、昔どこかで触れた温かさに接したような気がして、冷えた胸に瞬間、ジンと響いた。
これにて、一連のメール往来は終結、それでもやや疑問が残るのは――アマゾン・マーケットプレースの出品者側の態度にも問題があるのではなかろうか? そもそも新訳本の出品スペースに旧訳本を出品すべきではないだろう。旧訳本には旧訳本の出品スペースがあるであろうから。なかには「カバーは違うけど」なんて、厚かましい案内もあったように思う。新旧翻訳の違いとは、カバーの違いだけのことなのだろうか? 翻訳者も虚仮にされているものだ、この世界では。今回の場合でも、もし問い合わせのメールを出さなければ、新訳本を求めた読者は料金は取られて不用の旧訳本を抱かされたまま泣き寝入りだったことだろう。
ともあれ、これにて、一連のメール往来は終結、やっと[E]八木訳をブログに反映させることができるようになった。これまでの記述を読み返しながら、適宜、先に記したように[E]八木訳を付記してゆくとしよう。
「Moby Dick , Herman Merville、ところで、……」
横羽線を驀進中に、きみに宛てた追伸のことをおれは考えていた、瞬間、客の言った高速の降り口を忘れてしまった。
「ん? 浜川崎、これだ、これっ」
地べたに降りてから結構、僻地まで行ったので、まっ、いい客だった。
アケの朝、飲んで、寝て、起きると、Moby Dick ペンギンのポピュラー版だが、ようやく届いた。早速読み始めたが、楽しみなことだ。読書の合間にちょっと比較してみる。
Melville, Moby Dick
CHAPTER 1 Loomings
CALL me Ishmael. Some years ago--never mind how long precisely--having little or no money in my purse, and nothing particular to interest me on shore, I thought I would sail about a little and see the watery part of the world.
[A] パヴェーゼ訳
CAPITOLO I Miraggi
Chiamatemi Ismaele. Alcuni anni fa - non importa quanti esattamente - avendo pochi o punti denari in tasca e nulla di particolare che m'interessasse a terra, pensai di darmi alla navigazine e vedere la parte acquea del mondo.
[B] 阿部訳
一章 影見ゆ
私の名はイシュメイルとしておこう。何年かまえ――はっきりといつのことかは聞
完璧すぎる小説
★★★★★
まず、のっけから読者は船の紹介から読ませられる。この導入部分だけでも充分興味をそそられるが、本番は船の上から始まる。
この一巻はやや淡々としている。エイハブ船長もさほど顔を見せない。
その「淡々さ」加減が怖い。我々読者に「いったいこれからどんなことが人物たちに降りかかってくるのか」、想像させられてしまうほどに。
当時はSFなるジャンルはなかったが、それが19世紀にもあれば「超良質SF大作」といううたい文句でバンバン宣伝されていたことだろう。
まあ、それは置いておいて、どうやら海洋小説はどこまでも細かい。ジョゼフ・コンラッドがこれに比べられる最良の例だろう。我々はまるで豪華な屋敷の設計図を見せられているかのようなのだ。
児童向け小説なら、せいぜい20ページ程度で、「エイハブさんは、でかい鯨に食われてしまいました、ハイおしまい」と結ばれてしまうであろう。児童向け小説が悪いといいたいわけじゃないが、この素晴らしい超大作はどこまでもドライ。児童向け小説が情念たっぷりなのとは別に。
アメリカ史上屈指の大作家による、米国最高峰小説。これがなかったら、フォークナーもヘミングウェイもスタインベックも有名になっていたかどうか。ただ長ったらしいのではなく、記述ごとに意味があり伏線があり、かつ「記録」的である。まるで実際に起こったことのようだ。もしリアルでこういうことが起きても、ここまですごいストーリーになっていたかどうか。
先ほども書いたが、このサーガが米国、いや世界中に与えた打撃は半端じゃない。この小説はあなたが生きているうちに必ず読んでおくべきものだ。「課題図書」ではなく「通過儀礼作品」である。
なお、阿部知二さんの旧訳がある。それもいいがこれもいい。どちらを好むかはそれぞれでしょうね。
白鯨とは何か?ということは
★★★★★
900ページにもわたる大長編ですが、
実際に白鯨モビィ・ディックが登場して捕鯨船と戦うのは
ラストの3章・50ページほどしかありません。
物語は全部で135章に分かれ、一章分の分量は数ページしかなく、
次々に内容が切り替わります。
詩的で絢爛豪華な文体で海を描写したり、
理系的な実直な文章で捕鯨業や鯨の生態について語ったり、
船長エイハブを初めとする、捕鯨船の個性的な乗組員を描写したり、
あるいは、俗語を多用した荒くれ船員の会話を
シナリオのようにセリフのみを並べたり、
美しい言葉の表現と大量の知識に圧倒され、
そして白鯨との運命的な激突を迎えます。
白鯨とは何か?エイハブとは何か?
何を表しているのか?
そういうことは読み終わった後に考えるとして、
大長編のところどころに挿入されてきた、白鯨の不気味なイメージに
よってたかまった緊張が一気に解消されるカタルシスを味わいましょう。
白鯨との戦いは限界まで盛り上がった時点で唐突に終わります。
古典文学の典型のような堅く長々しい叙述の後に訪れる、
古典文学の概念をくつがえすような動きのある終末です。