逆境を知る人たちの物語
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この(三)になると、前の巻に濃厚にあった物語批判というトーンは薄れ、セルヴァンテス自体が物語の魅力に没入する度合いが強まっている。(二)で悲痛の心境を物語ったカルデニオやドロテーアには大団円が訪れ、捕虜の話を物語った大尉にも、若い恋を物語ったドニャ・クラークにも救いが齎される。一方のドン・キホーテは夢から覚めないが、彼に出会って語らった人は彼を優しく見守っている。
こうして前篇を読み終わってみると、登場する人たちの物語にある率直さに心打たれる。引用句や常套句に塗れたドン・キホーテの言葉にさえ聞こえる屈託のない心中の声は、今読んでみても実に新鮮だ。それは、物語る人たちが全て心に傷を負い、挫折を知っている人だからではないかと思う。身分に違いはあれ、自分の経歴や立場にモノを言わせた居丈高な語りが全くない(それを唯一試みるドン・キホーテは、この小説で一番の道化として遇されている)。苦痛や逆境を知るものが物語によって自らを証し立てる様子が、この作品で反復されている。読み進めているうちに、「千一夜物語」や「デカメロン」のことを思い出した。人間不信に陥って暴虐の限りを尽くす王を慰めるシエラザードの夜伽、ペストが蔓延する中で互いに心を慰める百物語。アラビアの物語が地中海を渡りイタリアに伝わり、さらに西に進んでスペインにこんな豊饒な物語をつなぎ、セルヴァンテスの手で物語批判としての小説が生まれたことを考えてみると、物語の効用と小説の面白みに改めて気づいた。
そしてドン・キホーテ、ドンキホーテの狂気、彼は魔法にかかったとして村に帰るのだが、今を生きる自分たちも本当は何らかの魔法にかかっているのではないか? それぞれが思い、信じていることも実際には魔法ではないのか? そんなことも考えさせてくれるような、奥の深い小説でもあった。後篇も期待。
牛島訳はよくできてはいるけれども、それでも原書の音楽性を伝えていない
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牛島訳を読んだ後で、スペイン語の原典にあたって読み比べをしている。日本語訳で粗筋をつかんでからスペイン語に挑戦するという省エネ読解法でやっている。
セルバンテスの文章は流れるような響きがある。よくできた音楽を聞いている感じがする。残念なことに、牛島訳は、このリズムを日本語に移しかえせてはいない。まあ、こんなことができる翻訳家はほとんどいないだろうけれど、戦前の上田敏京都帝大教授の力量には感服した。
『海潮音』で有名な上田教授がスペイン語の『黒瞳』を和訳していた。一行ごとになるほどと感心しながら、読んだ覚えがある。私が学部の学生だった40数年前のことてある。
森鴎外と上田敏がスペイン語の音について論争をしていたので、興味半分で2人の論文読んだことがあるけれど、2人ともスペイン語会話ができない人のようで、とんちんかんなスペイン語の音声に関するやりとりであった。有名な人でも完璧ではないということだ。
批判は、いくらでもできるが、私もセルバンテスの文体の持つ香りを日本語に移すことはとうていできない。イタリア語の諺にあるように「翻訳者は反逆者」である。
読者諸氏は、できるだけ早い機会に、セルバンテスが書いたスペイン語の原典にあたるよう希望する。スペイン語がわからなければ、勉強してほしいと切に思う。
こなれた訳の「ドン・キホーテ」
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ちくま新書版で挫折してしまった「ドン・キホーテ」。この岩波文庫版は読みやすくて、まあ膨大な本なので、まだ読了しているわけではないですが、暇な時に手にとっては爆笑しています。それにしてもドストエフスキーなどの文豪やヘーゲルなどの哲学者といった大思想家でセルバンテスに言及しないものはいないと言われるほど、のちの近代・現代文学への影響力は圧倒的なものがあるのに、一般に原作そのものがあまり読まれることがないので、少し残念な気持ちがします。本作品自体は分量はありますが、別に難しい本ではないので出来ればもっと多くの方に手にとって欲しいです。訳者である牛島信明氏が書いた案内書「ドン・キホーテ 神に抗う遍歴の騎士」が中公新書から出ています。それと同じ中公新書の「物語スペインの歴史」も作者セルバンテスの生涯に詳しく触れているので、併読されると良いと思います。
前編の終わり
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前編と後編は別の作品です。この三巻目で、ドンキホーテは故郷の村に連行され、そこで前編の終了というわけです。
ほとんどの人が後編も読むだろうと思いますが、ひとまず三巻目まで読むだけでも不満は感じないだろうと思います。