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アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

価格: ¥1,020
カテゴリ: 文庫
ブランド: 光文社
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生きることに纏わる、すべての苦悩が描きこまれている ★★★★★
十九世紀後半の貴族社会における恋愛をモチーフとしながら、結婚や家族の問題、男女の生き方や価値観の問題、モラル、教育、宗教の問題、さらには農業や政治や戦争の問題など、さまざまなテーマを縦横に描きこんだ総合小説。
ひとつのテーマに限定せずに、生きることに関するすべてのテーマを扱っている。
もう、この本に全部書いてある。
生きることに纏わる、すべての苦悩が描きこまれている。
まさに「描きこまれている」という表現がすごくよく当てはまる。
物語が、何層も何層も積み重ねられている。

すごいな、これは。
これだけの膨大なテーマを扱っていながら、物語はとてもすっきりしている。
つながりを、その根底にあるテーマを感じる。
本当に登場人物たちが「生きている」。

主人公が4〜5人いて、それぞれがそれぞれの価値観を胸に日々を生きている。
その中のひとりが、アンナ・カレーニナだ。
このあたりは、「風と共に去りぬ」にちょっと構成が似ている気がした。
細部に込められた暗示、対比も素晴らしい。

相手の心境が分からない。自分自身のことすらどうにもならない。
この心の動きが、苦しいほど伝わってくる。
愛する人と一緒に暮す、というのはこんなにも難しいのだなー

壮大な人間劇。小説というよりも劇のような印象を抱いた。

巻末の読書ガイドも、わかりやすい。
おすすめです。
この世の全て ★★★★☆
『アンナ・カレーニナ』はなぜこんなにも長いのか。新潮文庫にして全3巻、光文社新訳文庫で全4巻。カラマーゾフの兄弟にもひけを取らない大長編。それだけの分量が必要だったのは、この世の全てがここに書いてあるからだ。人間が感じるあらゆる感情がここにある。主人公の恋愛は物語を支える軸でしかなく、そこから何本もの骨太なテーマが枝となって、物語全体を支えている。それらの主題はどれをとっても、何ら現代の感覚と乖離していることはなく、時代を超えて人間の心にすとんと落ちるものばかりだ。トーマス・マンやドストエフスキーをして「小説として完璧」と言わしめた理由はそれなのだろう。

本書のレベルに比肩するほど、アンナもまた完璧な女性だ。しかしどんなに完璧な女性でも、彼女を取り巻く男性の立場から見れば、天使にも極悪人にもなりうる。アンナは老若男女に好かれる稀有な資質を持っていて、社会的地位の高い夫とかわいい息子がいて、その上美人。これ以上ないくらいに理想の女性に見えるけど、愛人のヴロンスキーや夫のカレーニンからしてみると、時には心の底から呪わしい存在に思えただろう。ヒロインを、彼女を愛する男性の立場から眺めるだけではなく、それと並行して多数の人物から見た姿を叙述している。だからその分、第三者から見た非の打ちどころのないアンナと、彼女が陥った泥沼のギャップがとても際立っている。その点が、今まで読んできた恋愛小説の古典と違うところだった。

(たとえばこれ→“「あら夫だけは別よ」素朴な薄笑いを浮かべて彼女は言った。「なぜか知らないけれど、夫のことは頭にないの。夫は存在しないの」”これだけ読むとただの悪女だけど、複合的な視点でとらえたアンナは本当に女性の中の女性。その落差がすごい)

また、アンナとヴロンスキーの激しい愛と対比して、もう一人の主人公、リョーヴィンの穏やかな田舎生活と結婚生活が詳細に描かれるのも大きな特徴。リョーヴィンの人生には、特筆すべきドラマティックな出来事は何も起こらない。だけど、彼は都会の貴族から見たらとても幸せそうに見えるらしい。そのわけを、彼はこう答える。
「もしかするとそのわけは、ぼくが手元にあるもので満足していて、ないものを嘆いたりしないからじゃないかな」

この言葉もまた、冒頭で挙げた、本書に書かれた「社会の全て」を構成する要素の一部だ。そして、最も普遍的なセリフのひとつだと思う。ただし、アンナのような恋に落ちてしまったら、もうこの言葉は響くこともないだろう。今ここにないものへの飢餓感から、あらゆる不幸が始まるのではないか。本人にとってその「不幸」とは、このうえない「幸せ」なのかもしれないけれど。(by ちゅら@<おとなの社会科>)
ぼろぼろになるまで読みたい ★★★☆☆
主人公は二人いる。一人は表題になっているアンナ。もう一人はリョービン。どちらかというとアンナよりもリョービンに共感しました。子供のことで頭が一杯のアンナに対して常に農民のことを思うリョービンに心打たれました。レーニンが、この作をぼろぼろになるまで読んだというのは、このあたりにあるのかなとも感じました。ちなみに新潮文庫と光文社古典新訳文庫の二つを読み比べさせていただきました。どちらとも優劣はつきませんでした。私も「アンナ・カレーニナ」をぼろぼろになるまで読まなきゃと思います。アンナにはどうしても共感できないので星3つにしておきます。
堪能したけれど・・・。 ★★★★☆
新訳は、非常に読みやすく、大きめの活字というのもあって、全4巻すいすい進みました。

さて、読後感をひとことで言えば、「壮大な物語を堪能したけれど、どうも最後まで感情移入し切れなかった」ということになります。「戦争と平和」の「お腹いっぱいの感動」といったのとは、比べるべくもないと・・・。

その最大の原因は、主人公アンナです。

まずは劇的に登場。あふれんばかりの美しさと、生き生きとしたパーソナリティで、これからの大河小説のヒロインとして、大きな魅力に輝きます。

ところが、いきなり早々、不倫にのめり込み、さすらいの「失楽園」へ。どうにも悩ましい状態が続いて、だんだん混沌へと・・・。一体なに?という展開なのであります。アンナのナルシズムも色濃く感じ取れ、ただの自分勝手、空回りとしか思えないところが、つらいです。あまりヒロインが好きになれないんです・・・。

トルストイは、この物語に一体何を託したのか?「不道徳には必ず報いがある」というのがテーマとの説もありますが、そんな真正面の道徳劇なのか???

もう一本の幹をなすリョーヴィンのエピソードは、ロシアの農奴制の問題から、哲学・神の領域まで、どっしりとした展開に浸れるのですが、結局、アンナの「失楽園」との接点があまり感じられず、まったく独立のふたつの物語という印象が強くなってしまいます。それが作者の狙いのひとつなのでしょうが・・・。

池澤夏樹氏も、自著「世界文学を読みほどく」で、「困ったことに、僕はこの話が全然好きではないことがわかった」と述べており、その理由を、トルストイの「上から目線」で説明しています。トルストイは、その描く登場人物のすべてを把握しており、完全にコントロールできるという前提に立っている、ということ。確かに、登場人物たちが、広大な舞台の上でチェスのコマのように、作者の想いのまま動かされているという感覚は分かります。人物が、作者自身もの思いもよらない形で、枠を超えて躍動して行くような面白みに欠ける、といったことでしょう。

また、サマセット・モームも「読書案内」で、「念のため『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』を読みかえしてみた結果、いまでは『戦争と平和』のほうが比較にならないほど偉大であると確信するに至った」と記しています。

う〜ん。どう考えたらいいんだろう・・・。

まあ、文学史に残る名作であることに変わりなく、その圧倒的な物語性は存分に楽しめますので、やはり、一度は読んでおく価値があるのはまちがいないでしょう。しっかり、お勧めしておきます。
まさに小説の最高到達点です ★★★★★
星の評価が5段階しかないとかなりつらいものがあるのですが・・・この作品を5つ星以外にどう評価しろというのでしょうか!・・・というくらいに完璧な作品です。 訳はこの光文社でも新潮でも全く遜色ありませんが、解説が丁寧で論文のようなレベルであるという点では
光文社がお勧めです。

完璧というのはどういう意味かというと、まずは構成。
序盤で、列車から降りるアンナと将来の恋人ヴロンスキーが出会う印象的な場面がありますが、最後までこの情景が常に背景のように作品全体を支配するよう緻密に計算されていることがわかります。2度目に読んだ時には結末も知っていたので、余計に伏線が際立って感じました。最後までわずかな部分にも物語に無駄がなく、いかにトルストイがこの作品の推敲に時間をかけたかがよくわかります。

次に思想性。トルストイの作品はあまりにキリスト教の影響が強く、他の作品(特に『人はなんで生きるか』などの短編)では説教くさいと感じて敬遠されることも多いようなのですが、この作品ではその説教臭さがほとんどないにも関わらず、トルストイの思想性が、主人公の一人であるリョービンに見事に表現されています。このリョービンがトルストイの分身として書かれていることは有名です。確かに物語の最初に登場するリョービンはいかにも青臭く(といってももう32歳くらいですが)、経験不足な田舎者でしかも無神論者です。しかしキチイという魅力的な女性に出会い、結婚し子供を持つことで、内面において飛躍的な成長を遂げていきます。この過程にトルストイの宗教哲学が全く無理なく込められているのです。

久しぶりに再読すると「ジャン・クリストフ」よりも好きな作品になりました。千数百冊読んできた本の中で、僕はこの作品が最も素晴らしいと思います。