『ワンダフルライフ』『ディスタンス』の是枝裕和による、劇場用長編第4作。1988年に東京で実際に起きた「子ども置き去り事件」をモチーフにし、母親に置き去りにされた4人の子どもたちが、彼らだけの生活を続ける約1年を描いている。撮影にも1年以上をかけた入魂の一作だ。
撮影時、子どもたちに台本は渡されず、監督のその場の指示で演技させたという。そんな独特の演出スタイルによって生み出された、生々しくもみずみずしい空気感が素晴らしい。彼らの感情が、頭を介してではなく心に直に入ってくるような不思議な感覚を覚える。そんなセミ・ドキュメンタリー的手法の一方でドラマとしての求心力を失うことがないあたりも監督の力量を感じるところだ。
カンヌ映画祭において、最優秀男優賞を史上最年少で受賞した柳楽優弥をはじめ、子どもたち全員の存在感が白眉。母親を演じたYOUら大人のキャストも見事にその世界に寄り添っている。(安川正吾)
強き責任感と必死に生き抜こうとする意志。捨てられても健気に母親を待ち続ける心に涙を隠せない
★★★★★
育児放棄された4人の子供たちに舞い降りる悲劇を描いた映画。実話に基づく映画であると知っていながらも、またそれがゆえにその出来事の恐ろしさと悲しさに胸が締め付けられた。
まず恐ろしさだけれども、アルバイトもできない幼い子供を置き去りにし、「あとはよろしくね」という一言だけで簡単に手放すことができる人間がいることに驚愕、そして怒りを隠せない。自分の幸せだけを考えて人のことは考えない。人と言っても他人ではなく自分の子供だ。4人の子供たちの母親は精神がおかしいとしか言いようがない。あまりの常軌の逸した行動に開いた口が塞がらない。そんな母親でも4人の子供たちは健気に待ち続ける。その純真な瞳が心を打ち、涙が止まらなかった。
12歳の長男が下の3人の面倒を見る。学校へも行けない12歳の少年がお金をやり繰りして必死に生き抜こうとする姿が勇ましい。そしてその強い責任感。長男であるがゆえの責任感。そしてお金に困っても決して非行に走らない強き意思。演じる柳楽優弥の目がそれを物語り、そしてその強い眼差しに吸いつけられた。カンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞したことに対する共感を今さらながらに感じるばかりだ。素晴らしく自然体でリアリティに富んだ演技だった。
4人の生活は順調に進むはずもなく、お金は底をつき、電気も水道も止められた。それでも4人は母親を待ち続けた。必死に生き続けながら。
劇中裕福な家庭に育った女の子との交流や、学校へ普通に通えている子たちとの交流も描かれ、その対比が4人の悲惨な境遇をさらに浮き上がらせる。学校に通えているだけで十分。勉強させてもらえているだけで幸せ。そんなこともメッセージとして投げかけているのではないかと思った。子供を産んだ親の責任の遺棄。この言葉と一緒に映画が物語ることとして受け止めたい。
見る価値がある映画だが、二度と観たくないとも思った。
★★★★★
柳楽優弥が、カンヌで最優秀男優賞を史上最年少で受賞したことで有名な作品。
出生届も出されていない、父親が違う子供たちと母親。母親が自分の幸せのために、子供たちと少しのお金をおいて、恋人の元へいってしまう。そして始まる、「誰も知らない子供たち」の生活。
映画はあくまでも淡々と進んでいく。非情なまでに客観的である。ドキュメンタリーのようであり、逆に幻想的であったり。現実なのか、非現実なのか。映像、演出が秀逸。「気持ち悪かった」と、ひざをつかんで震える手。まったく何も解決されていないし、進む先も絶望的なのに、なぜか子供たちは、楽しそうに道を歩いていく。悲しいという言葉では違和感があるが、悲しいのである。
見る価値がある映画だが、二度と観たくないとも思った。現代版「火垂るの墓」だと思ったが、「誰も知らない」の方が救われない印象。
“親に捨てられた子供たちのノンフィクションストーリー”
★★★★★
実際に起きた事件を映画化したもの。
人の子供を持つ、シングルマザーが
子育てに疲れ、子供そっちのけで男の元へ行ってしまう。
そのため、母親から送られてくるギリギリのお金で
12歳の長男が3人の兄妹の面倒を見る。
子供は皆、義務教育を受けたことなく、ほとんどを部屋で過ごす。
そのため友達もおらず、遊び相手も兄妹か人形やゲームのみ。
外から見たら非常識な世界も、4人の子供達には当たり前の生活
だから母親を責めることなく、いつまでも帰りを待ち続ける。
彼らの望むことはただ1つ、家族が皆一緒に暮らせること。
だから、警察や福祉事務所にも連絡せず、
彼らだけで全て済まそうとする。
妹が死んでしまった時も、みなで埋めたりといった具合に。
誰も頼れないために起こる信じられない出来事の連続。
最後まで、子供は全て自分が悪いと思い、
母を待つ姿に心が痛みました。
だれも知らない?
★★★★★
「だれも知らない」というタイトルがまず何より秀逸な皮肉だと思う。
作中、観ていれば分かると思うのだが、子供たちが救われるチャンスは何度もあった。しかし実際に誰かが子供たちを救ってやることはしなかった。
目の前に、明らかに異様な格好をして困窮している子どもがいるのに、大人たちはその危機を「誰も知らない」と通してしまったのだ。
子供たちがボロボロの服と痩せこけた頬しているのに、コンビニの店員は通報することから逃げた。街行く人々も声を掛けることもしない。三階の住人も思考停止してアクションを起こさず、野球のコーチも怪訝なことは追及しない。母親も子どもたちの目の前の苦しみを知らない。タクシーの運転手も、パチンコ屋の店員も、だれも「知らない」。見ようとしないのだ。
現実の巣鴨事件の本当の悲惨さを隠し、事実を歪曲して本当の犠牲者の子供たちの苦しみを描いていない、と言う批判がある。至極まっとうで健全な批判だと思うが、ありのままの現実を描いた時、そこで追及される悪は母親と父親など、直接の犯罪者になるだろう。しかし映画としてこの作品が追及したい罪は、「だれも知らない」と目を背けたその事なかれ主義に向けられているのではないだろうか?つまりこの映画で裁かれているのは、母親でも失踪した父でも母の愛人でもなく、あなたであり私でありこの社会なのだ。
ただ、ただ悲しい・・・。何も映し出されていない瞳、幽霊の子供達。
★★★★☆
80年代に起った実際の事件をもとにしたストーリー。
現実の事件から醜悪さ、灰汁や濁りをフィルターにかけてとりのぞいた感じ・・・。
と、どうなるのか・・・。
ひたすら透明な悲しさだけが残る。
そこに映し出される日々はクリアで透明なんだけれでも現実社会から一つへだったたような現実感のない世界。
ただ、ただ悲しい・・・。
とっくの昔に現実を直視する事を放棄した主人公の少年の目。
自分勝手な大人達のせいで失われた子供時代・・・。
自分自身すら放棄した何も見ていないようなその目にマルグリット・デュラスのラ・マンの少女を思い出しました。
一番信頼すべき大人にあまりにも多くの裏切りにあった為に空っぽになってしまった心を映し出している様な透明で無表情な瞳。
母親に捨てられ子供達だけの心もとない生活。
それでも生きて行かなければならない。
声にならない悲痛な叫びのようなものを感じます。
見ているのがつらく、いたたまれなくなりますがそれでも、むごいほど眈々とストーリーは進んで行きます。
なにげないシーンの一つ一つに胸が痛みます。
駅で帰ってくるはずのない母親を待ちながら一番年下の少女がアポロチョコレートの箱を持って「最後の一個だ・・・。」とつぶやく時の兄である少年の表情、
自分を捨てたはずの母親の洋服に囲まれ母親の幻影にしがみつくように洋服ダンスにひきこもり心を閉ざす少女、
電気もガスも水道も止められ公園で過ごす子供達・・・学校にも行けず戸籍もなく幽霊の様な存在・・・。
でもたしかに生きていてささやかな生活があって・・・。
それが本当に悲しい・・・。