昔は映画館に
★★★★★
小学生の頃、学校から映画を見に行く行事がありました。
モスラなどの怪獣ものを見に行くことがありました。
なぜ学校から映画を見に行くのか分かりませんでした。
楽しいので、深くは考えることなく、また見に来たいと思いました。
モスラの裏に、すごい文化的背景、精神的な土台があることを知りました。
自分も映画作りに関わりたいと思いました。
名作の裏には、大きな思いがあるのだと。
怪獣映画の志
★★★★★
この本を読んで興味を覚えたのは以下二点である。他のレビュアーの方の意見と重なるが敢えて僕なりの感想を述べたい。
まず第一点。原作者が 中村真一郎、堀田善衛、福永武彦であったことには驚いた。
お三方の本は それぞれいくつか読んだ事はあったが この三名が共著を出すという事実にも驚くし ましてや それが「モスラ」であるという点には一層の驚愕を覚えた次第である。
僕は「モスラ」は ゴジラとの共演で知ったのが初めてであり つまり 既に十分「怪獣映画」になってしまったモスラである。そのイメージで「モスラ」という映画も見たことをうっすらと覚えている程度だが まさか かような原作者であったとは思わなかった。
本書を読んでいて モスラという映画が 怪獣映画というジャンルに留まらない「志」を持った作品であることは この原作者の顔ぶれを見ても 良く分かると思うのだ。
第二点。「風の谷のナウシカ」との関係面は非常に面白かった。関係というより いかにナウシカが モスラに負っているかという点である。
これは王蟲がモスラの幼虫に似ているという表面的な話には留まらず ナウシカの持っているエコロジーの感覚が 既にモスラに胚胎されているという点で 参考になる話しだ。
この点を見ても「モスラ」は 怪獣映画には留まっていない。
「ゴジラ」もそうなのだが 黎明期の「怪獣映画」とは「怪獣」の姿を借りて何かを語りたいという製作者の志があったということなのだと思う。
さような歴史は その後の年月の中で忘れられてきたと思うが この度 この時代に本書を得て 復活した点は喜ぶべき事であると思った次第だ。
知的興奮を誘います
★★★★☆
NHK/BS2の「週刊ブックレビュー」で玉木正之 (スポーツライター)氏がお勧めの本として取り上げて、「ここ3年くらいに読んだ本で一番面白かった」と絶賛。同席のあさのあつこ氏も「えーっ、えーっ!そうなのぉ!と思わされることしきり」、と驚嘆していた。ので、早速買って読んでみた。
なるほど、面白い。目からウロコ、と言うべきか。よく取材している、労作と言うべき論考である。
ところで、実は私は「モスラ」映画をリアルタイムでもビデオでも一度も見ていない。公開時は田舎の小学生だったので、近所に映画館など無く、見るすべもなかったのだ。(私が見た最初の東宝の円谷怪獣映画は「キングコング対ゴジラ」である。その後「モスラ対ゴジラ」とか「三大怪獣・地上最大の決戦」などはリアルタイムで見たので、モスラ自体には親しみはある。)
そもそも最初の「モスラ」を見ていないというのは、この本を読み、論じる上では、かなり致命的な資格の欠如ではある。それでも、この本の中で展開される時代背景や、関わった人達(原作者の中村真一郎、福永武彦、堀田善衛や映画人たち)の情念、映画製作の過程の緻密な解明などなどは非常に興味深い。論証という点では、若干、我田引水と言うか牽強付会と言うか、論理に飛躍のきらいが無くもないのだが、話半分としても興趣は尽きない。お勧めである。
「モスラ」から「風の谷のナウシカ」へ
★★★★★
「モスラ」を見た時、60年安保をそれとなく感じるところがあったのですが、ここまで見事に論理的に展開されるとなるほどと頷かざるを得ません。
一番驚いたのは、原作「発光妖精とモスラ」の存在でした。しかも、この作者が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛と言った純文学の作者たちだったことです。
そんな彼らが描きたかったのが、日米安保に代表される「軍事力」の敗北(いかなる最新兵器を持ってきてもモスラを倒せない)であり、「平和」的な解決(主人公たちの機転による解決)だったことです。その象徴として国会議事堂への攻撃が原作にはあったというのです。映画では、東京タワーになっており、政治的な意味合いは薄まったものの、今度は「人工物」対「自然」という構図が成り立ったというのです。
こうした延長上に、「風の谷のナウシカ」があるとしています。
「キング・コング」や「ゴジラ」を踏まえたこの映画が、これだけの意味を持ち、当時の「時代」を反映した作品だったとしています。
非常に楽しく読むことが出来たし、「モスラ」や「風の谷のナウシカ」をもう一度見直して見たいと思いました。
何故「モスラ」を素直に愛せないのか ?
★★☆☆☆
映画「モスラ」を通じて、裏にある社会的背景、原作者達の思想的背景を論じたもの。本書のような本が出る事は、怪獣の中で「モスラ」を一番愛している私には慶賀の至りなのだが、著者は背景の分析に目が行く余り、肝心の映画そのものに目が行っていないのではないか。
「モスラ」の原型を蛾にした理由は、本書にある通り変態を繰り返す生物からの選択であろうが、それを養蚕と結び付けるのは牽強付会に過ぎる。善玉、悪玉の双方を演じるゴジラ・ラドンとは異なり、「モスラ」は一貫して正義の味方であり平和の象徴である。だからこそ、絵柄が美しく戦闘能力のない儚い蛾にしたと考える方が自然である。また、映画の主人公に関して論じているが、映画を観た人なら明らかな通り、それは二人の小妖精(ザ・ピーナッツ)に他ならない。島の名前がインファント(=infant=小人)なのは、当然、小妖精の島だからである。「モスラ」の歌がインドネシア語なのは、ファンにとっては常識だが、"雰囲気作り"以上の意図は感じられない。更に、著者は小妖精を「ゴジラ」の母として捉えて妙な三角関係を想定しているが、"島神"を奉る"巫女"的存在と解する方が自然である。南方幻想にも触れているが、それを原作者の戦争体験や戦後の日米関係と絡めて論じており、これも虚しい。日本人には昔から南方への憧憬があり、今でも「南の楽園」とは言うが、「北の楽園」とは言わない。また、「モスラ」が繭を作る場所に関して、原案を国会議事堂として安保問題を取り上げているがウンザリである。他の箇所の記述と言い、著者の反米思想が露骨に出ている。高い東京タワーの方が視覚的効果も高いという風に素直に捉えるべきであろう。一事が万事、シンプルな事を無理に複雑化しているのである。著者が封切り時の映画「モスラ」を観ていないのが致命的だと思う。
全体として著者の衒学趣味が鼻につく上に、肝心な点の分析が杜撰かつ偏向性が強い。「美しい花がある。花の美しさというものはない」とは小林秀雄の至言である。極度の分析指向は、対象の美を損なう。何より著者に、映画「モスラ」を純粋に楽しむという一観衆としての視点が欠けているのが痛い。小学生の頃、映画「モスラ」をワクワクして観た身としては、何故この映画の面白さを素直に伝える姿勢を持てなかったのか残念極まりない。