特撮怪獣映画で原水爆/原子がどのように取り上げられてきたか
★★☆☆☆
このテの本に多いオタク本やノスタルジー本とは一線を画している。
特撮怪獣映画において「原水爆/原子力イメージ」がどのように取り上げられてきたか、その変遷を映画毎に仔細に横断的に読み解いている。
1954年の「ゴジラ」を嚆矢として日本発で世界に問われた特撮怪獣映画において、拭い難い影を落としていた原水爆、被爆のイメージは、60年代、70年代と時代の進展と映画産業の衰退を通じて、次第にその表現のされ方が変化していった。
著者はその軌跡を批判的に論じている。
このあたりの視点は客観的でブレがなく、説得力を持つ。
反面、やや平板な斬り込みだったとは言えまいか。
映画を読み解く中で明らかとなる原水爆イメージの変化が何故生じたか、について製作者や演出者サイドの事情を掘り起こすような切り口があっても良かったではないか。
取り上げた映画/TVドラマの大半は東宝作品であり、円谷プロ作品であるわけで、関係者
の絞り込みは容易である。つまり取材しやすいわけで。
しかも、「ゴジラ」封切から半世紀余り、関係者は次第に高齢化し、他界された方々も少なくない。これまで比較的踏み込まれることの少なかった本書のテーマについて、直接取材することは映画史においても貴重な資料となりえたであろう。
著者からすればやり方を変えればほとんど別の本になってしまう、ということでDVD鑑賞と文献の解読にその手法を限定したのかもしれないが、読者としては食いたりなさが残った。
その意味で残念な一冊。
盲点をついてくる
★★★★★
「特撮映画の社会学」というサブタイトルに負けず、特撮映画を通じた社会の変遷を丁寧に
解読しています。たしかに「ゴジラ」(1954年)で生物としてのゴジラ研究を主張した山根
博士(志村喬)と「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」(1965年)で不死身の兵士
を作ろうとした医師(同じく志村喬)の間に共通項があります。また「モスラ」(1961年)
は原爆実験の島に住民がいたという衝撃的な出だしであったのに、島が楽園として描かれ、
原爆実験の危機の時になぜモスラが現われなかったのか、という問題が不問にされている
という指摘は私たちの思考の盲点を突いている。
著者の特撮映画への思い入れもうかがえる奥深い好著です。