レヴューというより、雑感です
★★★★★
いわゆる戦争の功罪を、この作品から垣間見た。
戦争が起きたおかげで実現した出合い。
学校に通えない子供たちのための、寺を場とした青空学校。
これらは、戦争のプラスの側面だろう。
戦争が起きたおかげで人々の心は、もう二度ともとには戻れなくなる。
点灯屋、ねじ巻き屋、左官、車夫、……自分はその道のプロフェッショナルだ、という自分の職業に対する誇りを持ち、そして、困った人に対する同情・憐憫の情を抱き、困った人を助けたい、という美しい心、美徳をそなえた人々。彼らを戦争が直接的に、また、間接的に変えてしまう。
作中、「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ」という言葉が引用されているが、あらゆる悪を扇動するのは悪徳の人で、実際に行動するのは美徳の人、なのかもしれない。可愛そうだ、力になってあげたい、役に立ちたい、そういう、美しい心をそなえているがゆえに、知らずしらずのうちに、人々は悪の道に足を踏み入れてしまう。背負う必要のなかったはずの罪、抱く必要のなかった秘密を代償にして。
繰り返し場を変え、形を変えて登場するテント。人間のように体の中に骨があるのではなく、体の外に骨がある、という構造。いざというときには、飛べる。カナブンのように。
飛べる、となると、軽そうだ。軽さ、かるみ、というのは、この小説が有している特徴かもしれない。
上林が、「小雪」という騾馬に乗り、安否が絶望視される馬渕を探しに行く、シリアスなシーン。このシリアスな局面での滑稽、郷愁をまじえた描写は、重さ、深刻さからするりと身をかわす、かるさ、かるみが漂う。
――人形の動作は、はじめはぎごちなくみえていても、太夫の語りと三味線の音色が作り出すリズムによって、生命が吹き込まれ、型にのっとって動いているにもかかわらず、ある種の自在感を獲得しはじめる。
「人形」を〈登場人物〉、「太夫の語り」を〈語り手の語り〉、「三味線の音色」を〈登場人物の発話〉に置き換えると、これは、あるいは作者によるこの小説の評言ともなりうるかもしれない。
上巻冒頭で登場した「二重の虹」、「ふたつの虹」のイメージは、たとえば、こんなふうに繰り返される。
(前略)森宮の時間が、以前の速さで流れはじめたかのようにみえた。しかし、じつはもうひとつの新しい時間軸がその下に、あるいは傍に加わって、絶えず旧来の時間を衝き上げ、合流し、渦をつくり、呑み込もうとしていた。
そもそも虹は、「古くは竜の一種と考え、雄(内側の色の濃い主虹)、雌(外側の色の濃い副虹)をと呼んだ」(『福武漢和辞典』より)という。「呑み込」む、というと、竜のような生き物も連想しなくもない。
「高速で移動する物体の中では、時間がゆっくり進む」。時間がゆっくり進めば、移動する物体は、速く進む? 低速で移動する物体の中では、時間が速く進む? 小説が一つの乗り物だとしたら? 小説が高速で移動すれば、読者に流れる時間はゆっくり進む? 小説が低速で移動すれば、読者に流れる時間は速く進む? ……わからない。
上巻で千春が見た不思議な夢は、下巻において結末を見る。どのような結末か? それは、読んでのお楽しみ。
辻原氏は、「ジャスミン」の中で、死者は数えられない、と書いた。ひとりの人間の死は、数字に置き換えられない。ひとはひとりひとり違う存在だから。「許されざる者」、というタイトルにも、そういうニュアンスが含まれている気がする。
結局、「語り手」としての「私」とは、いったい、誰だったのか、謎のまま終わった。あるいは、彼は、天狗の面をかぶった謎の男だったのだろうか?