こんな先生に出会いたかった
★★★★☆
本書が出版された2000年はY2Kやノストラダムスの大¥言で世間が騒がしい頃。読売文学賞を受賞されたとのことですが、全く存じ上げませんでした。読了後、もっと早く出会いたかった気分です。
本書の白眉は「漢文について」と「日本人と文章」ですね。そして、漱石、子規が作った漢文を正面から容赦なく批評を加える「木屑録を読む」がひとつの小宇宙を作り上げています。
大学浪人の頃、京都大学の中国文学専攻の大学院生が予備校のアルバイトで教えに来ていて、「漢文について」の趣旨と全く同じ内容を講義してくれた記憶が鮮明に蘇ってきました。もやもやした漢文の意味がクリアになった反面、漢文の点数が全く向上することがなかったのですが、「漢文について」の前半を読ませていただき、疑問が氷解。
つまり大学院生は漢文を中国語の文章として解説してくれたのに対し、大学入試(日本古来の訓読)は中国語を無理矢理日本語の文章に当てはめ、目で読む技術なのですね。
さらに本書で、筆者は恐ろしいことをおっしゃります。「漢文をよむ際は、下の字を先によんで、それからもどって上の字をよむのだと思っているひとがある。ばかなことをかんがえるひとがあるものだ」さらに、「世界じゅうどんな言語だって、文章は順に書くにきまっている」
明確に指摘されていないのですが、この「漢文」を「英語」に置き換えてみたらどうでしょうか。
現在高校・予備校で主流である、5文型や品詞分解による英文読解にそのままあてはまりませんでしょうか。漢文受容の時代と比べ、英語の学習が全く進化がないのではないか、という痛烈な批判と受け止めました。
さらに、中国人の愛国心の強さ(常に不思議に感じていました)と日本人の軽佻浮薄さの指摘。かつて清水幾太郎が英語の「idea」がギリシア語の「イデア」と通底していることを指摘したことが中国語にもあてはまるとのこと。
取って返す刀で、苦悩する孫文と軽いノリの福沢諭吉を比較するに至ってはにんまりしながらも、その鋭さに驚かされます。
ここまで、説得力のある文章が連なると、「木屑録を読む」における筆者の説明がすんなりと頭にしみ込んでいく感じがします(これが小宇宙の所以)。
本書は、「明治の文豪、露伴、漱石は漢文の素養が素晴らしく、中国人も舌を巻く漢文を作った」という評価を嘘くさいと感じている社会人や、漢文と英文は似ているようでどうも違うように「もやもや」を感じている高校生に読んでいただきたいと思います。
漱石「木屑録」の名訳と高島流「漢文」論のセット。どちらも良いが、分けて読みたかった
★★★★☆
●漱石の若書き「木屑録」はすべて漢文で書かれているので、読みたくても手が出なかった漱石ファンも多いに違いない。支那文と日本語に造詣の深い著者が、その「木屑録」を現代ことばに訳している。
●訳出は大分くだけているが、可笑しみとリズム感があって、漱石らしい雰囲気がうまく出ている。
●日本人と漢文を論じた章も、単独で読むのならば、ひじょうに面白い。しかし、この部分が本書のタイトル「漱石の夏やすみ」にふさわしいかどうかは疑問である。
●おかげで、なんだか「木屑録」をダシに高島氏お得意の漢文論が披露されているだけのように感じられてくる。
●漱石の漢詩を高島流に訳した一冊があったらいいなぁ、と思った。
すばらしい「本」。名著!
★★★★★
日本人と漢文のかかわり、異文化理解、また漱石文学への理解など著者の深い教養がなければなしえなかった名著。構成も秀逸。
「漢字と日本人」とセットで読もう!
★★★★★
漱石が明治22年の夏休みに房総を旅行したのち、正岡子規に見せるために書いた漢文の旅行記「木屑録」。本書は木屑録の高島氏による現代語訳(ややべらんめえ調の「自在訳」)と、木屑録を読むための小文3編、および木屑録解題ともいうべき「木屑録をよむ」からなる。
本書ではそのなかの小品3篇、中でも「『漢文』について」の文章がもっとも重要である。漢文は江戸時代までの日本人の言語生活に密着したものだったが、そこでいう「漢文」とは、現代の我々が古典の時間に習う漢文とは全く異なるものだったのだ。そのことが、氏の丁寧な説明によって、水がしみこむようにすんなりと理解できる。
かつて、日本人の言語生活を考える上で氏の『漢字と日本人』に大いに衝撃を受けたのだが、本書は同書とセットで読むべきものである。『漢字と日本人』では、主に漢字が輸入されたとき(古代)と明治の大変化について扱っているが、本書では、江戸時代の知識人の漢字との関わりが良くわかる。
終戦直後の「カナモジカイ」のような輩が2度と現れないために、全ての心ある日本人は本書を読むべきだと声を大にして言いたい。
付記:ウェブ上で連載されている「新・お言葉ですが・・」が休載になっています。氏の一日も早い恢復を祈念するものです。