教養があるということは人格が抜きん出ているということ
★★★★☆
東京大学の学生も最高学府の学生という振る舞いができていない。多くが、今の若者が読むような雑誌を読み、TVを見て、同じような思想を持ち、同様の哲学で生活している。
『大学は、教養(リベラルアーツ)を学び、人格の陶冶を第一義として行くべき所なのだが、その教養吸収という意味合いで大学は全く機能していない、それは最高学府(東大)の生徒も同様である。』というのが、本書の主張である。
教養は人格性と=で結べるものである。
立花氏は、東京大学で臨時教員として講義を行う立場から、東大生の実態が非常に密にわかると主張している。レポートを提出させても多くが、陳腐な内容に終わっており、ひどいものになると、文章としてのロジックが成立していないものまであったという。また、研究者による東大生の常識的判断の欠如を表すデータも少なからず存在する。
<大学を教育の場として機能させるには、教養課程(リベラルアーツ)を徹底的に
やること。>
人間は莫大な知識を学び、それを逐次一事一事可能な限り実践することで、潜在能力を発揮できるようになる。様々な分野で共通の法則があることに気づくことが”ゲシュタルトが出来た”と言い、このゲシュタルト能力こそが人間性(人格性)に深く関わっている。大学は膨大なゲシュタルトを作りに行く場だ。
日常生活に垣間見るありとあらゆる事象に共通の法則を見出すことを”頭が良い”というのであり、そして実行に移す能力を身につけてこそ”人格が出来た”という。東大に合格するというのは、いわば草野球で上手いというのと同等である。そもそも東大程度の試験に落ちる方がおかしいのであり、この程度の能力で、満足していては絶対にいけない。強い精神と慈悲心を身につけてこそ、大卒の資格があるといえる。
東大生への罵倒ではない
★★★★★
1970年代後半から1980年代前半に生まれた人ならわかると思いますが、その頃は、勉強して、いい大学に行って、いい会社に入ることが、最良のルートと言われてきました。
実際その過程にある受験というシステムは、意味のないものをどれだけ効率的に覚え、点数を稼げるか、そのテクニックを競うゲームとしてでしかなく、本著でいう「教養」とはかけ離れたものです。
そして、大学に入学したところで、中高での意味のない勉強から解放されて、また間違った形での自由を無為に浪費する3年があり、4年目前には就職受験ともいえるシュウカツがまっている。
そうしてたぶん多くの人が30歳前後で、社会に出た後に自分の「教養」の無さを自覚していると思われます。まさに自分もそうですが、すべてを立花氏の指摘する文科省の制度に収斂はできませんが、抗いがたくそのアーキテクチャの中にいたことは事実です。
本著の誤解は東大生がバカというよりも、教育システムそのものの欠陥を指摘しているわけです。
そして、本当の「教養」について、知のマップという非常に意味深い視点を与えてくれています。
もっと早い時期に読んでおきたかった、そう思える一冊です。
予想通りの文科省批判等の内容ではありますが
★★★☆☆
「官」に支配された「学」の状況を歴史的に説得力を持って見事に描いていると思う。
確かに最近職場に入ってくる東大卒(にかぎらないが)われわれの世代が常識として
いたことを知らず、驚くことがある。
ただ、明治100年の間の文部科学省の政策の中で育った僕も似たり寄ったりなのだ
ろうなと思う。
自分なりに知の再構築に努めるつもりである(ちょっとかっこよすぎたか?)
京大生は馬鹿になったのか?
★★★★☆
東大の暗記中心・官僚主義的な教育を批判している。
立花氏は、東大が背負った歴史的経緯によって、
それを裏付けている。
それはそれで納得。
しかし、東大を批判する参照となった「京大」も、
教養がなくなっている可能性は大いにある。
むかしのノーベル賞受賞者を上げるだけでは、
論拠として不十分では?
指摘はともかく今後の指針は
★★★☆☆
教養教育の重要性とか高校・大学入試における幅広い科目の重要性についての指摘は、なるほど当たっていると思います(現に五教科七科目受験は復活したのですし)。
ただ今後の指針にはさほど内容がありません。大学での最初の一ヶ月に教員の総力を挙げて「世界概論」の集中講義をする、などいくらか提起はされていますが、著者は本書の後東大の歴史の方に(『東大と天皇』)興味が移ってしまったせいもあり、本書はあくまでも問題提起の本であると思われます。
東大でくじ引き入試をするというアイデアも、どんな入試をしたって結局ある程度バカは入ってくるという、理想ではなく醒めた認識から出てくる現実的な意見なのでしょう。