「僕は君のためならどんな高価なものでも高価とは思いません」
衣服や宝石を惜しみなく買い与え、嫁のスラックス姿に「文学的感興」を催し、「あなたの靴に踏まれたい」という内容の歌を贈る文豪の姿は、「日記」の瘋癲老人そのままだ。
その一方でコケティッシュな妖婦颯子と渡辺夫人とのあまりの違いにも驚かされる。彼女の文面は知性と鋭い感性にあふれ、その流麗な文章は文豪のものと並べていささかも見劣りがしない。それどころか『瘋癲老人日記』をはじめ、多くの作品の創作過程にまで細かくアドバイスをし、谷崎はそれに忠実に従っているのである。
実在のモデルから谷崎がいかに小説の人物を創出したか、その過程に思いを馳せるのも楽しいが、本書はそれを越えて、死期を間近にした作家と一女性の深い精神的な絆が克明に浮かび上がってくるのである。
傑作誕生の裏側を知りたいという、いささか下世話な欲求から読み始めたとしても、いつの間にかいつもの谷崎文学の独特な世界へと吸い込まれていく。不思議な本である。(三木秀則)