バブルについて語った言葉が印象的。
★★★★★
バブルについて語られた言葉が印象的だった。
「モノではなく情報を売る」時代だった80年代。
例えば皿。
皿が想起させる生活を売り物にし、お皿以上のものを見せていた。
あるとき、人が気づく。
これは単なる皿じゃないか、と言って、
皿を地面で叩き割った。
この割った瞬間こそバブルがはじけた瞬間だったと。
なるほど。
現代を深く理解し、良い未来を築くための特別講義
★★★★☆
経済白書に「もはや戦後ではない」と記された50年代、安保闘争と高度経済成長を体験した60-70年代を過ぎ、満を持してやってきた1980年代。それは、かつてなく裕福になった社会と、やがて来るバブル経済とその崩壊に向けて歯車が軋み始めた時代であった。
そんな中で育まれた地下(アングラ)文化。その一部は2000年一桁台も終わろうとしている現代もアップ・ストリームとして流れ続け、また一部は今日も人知れず暗渠を流れ続ける。
「ピテカントロプス・エレクトス」、「YMO」、「スネークマン・ショー」、「おたく」 …。
1980年代に、いったい何が起こったのか。それが起こった背景、必然性は何処にあったのか。自らその静かなる混沌の渦中に身をおいた筆者が、改めて1980年代を俯瞰する。 1980年代に産声をあげた世代の大学生への特別講義という形で、筆者が文字を拾い語る作業は、自分とその時代を顧みること以上に、不確かで歪んだ現代と未来の在り方を確認する作業そのものと言え、大変意義深い。
“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了
★★★★☆
ここ数年、80年代を顧みる著作が数多く出版されている。その中心となっているキーワードは「おたく」と「バブル」だ。著者が指摘するように、ピテカン、テクノ、ニューウェーヴ的なものは隠蔽、忘却されている。当時は逆だった。「おたく」も「バブル」も水面下で進行していたわけで、時代の象徴はピテカン的なものの側にあった。この20年の間に“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了したのである。ピテカンを頂上とする「いいものもある悪いものもある」という文化的ヒエラルキーは、六本木ヒルズを頂点とする「勝ち組負け組」の資本的ヒエラルキーへと取って替わった。このパラダイムシフトの要因としてセゾン文化の功罪が挙げられる。ただ、著者が指摘する“「おいしい生活」の虚構性に皆が気づいた=バブル崩壊”というのは若干違うんじゃないか。皆、「おいしい生活」の虚構性に気づこうとしないって状況がさらに進行しちゃったんじゃないかと。大塚英志は糸井重里の仕事を“団塊世代が主導した消費による階級闘争”と評した。それを多くの人々は“文化でもなんでも金で買える”って誤解したまんまなんじゃないか。文化よりも資本のほうがえらいって言う。だから「かっこいい」の価値は下がった。“いいものが売れる”から“売れるものがいい”に時代は移った。文化では「感性」が差異を生むけれど資本では「情報」が差異を生む。だから「感性」じゃなく「情報」勝負の「おたく」の方法論が今の時代にマッチしているんだろう。
もし仮に80年代がスカなんだとしたら90年代は大スカである。ビーイングとかがまさに「情報」で大儲けした90年代を(作業としてはつまらないにしろ)、検証、総括する必要がきっとある。80年代の“若者文化”を創っておきながら、90年代に入るや否や80年代を断罪したJICC/宝島の反動ぶりはその研究対象になるね。
「ピテカントロプス・エレクトス」から
★★★★☆
現代の「オタク」の源流を80年代に求め
そこからの視点で現在までの潮流を語った
大塚英志『「おたく」の精神史』に対し、
本書は「かっこいい」「ニューウェーブ」、
日本初のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」
とそこからの系譜を足がかりにして80年代から
現在までの潮流を語っている。
何故「おたく」側が怪物的に肥大化し
洒脱な「かっこよさ」が拡散してしまったのか
文中詳らかではないが、行間に溢れる
「ピテカン」なるものへの憧憬は
良い意味でも悪い意味でも
どこかで「粋」を志向する都会の匂いを感じる。
“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了
★★★★☆
ここのところ80年代を顧みる著作が数多く出版されている。その中心となっているキーワードは「おたく」と「バブル」だ。著者が指摘するように、ピテカン、テクノ、ニューウェーヴ的なものは隠蔽、忘却されている。当時は逆だった。「おたく」も「バブル」も水面下で進行していたわけで、時代の象徴はピテカン的なものの側にあった。この20年の間に“時代のヘゲモニー”は「文化」から「資本」へ移行完了したのである。ピテカンを頂上とする「いいものもある悪いものもある」という文化的ヒエラルキーは、六本木ヒルズを頂点とする「勝ち組負け組」の資本的ヒエラルキーへと取って替わった。このパラダイムシフトの要因としてセゾン文化の功罪が挙げられる。ただ、著者が指摘する“「おいしい生活」の虚構性に皆が気づいた=バブル崩壊”というのは若干違うんじゃないか。皆、「おいしい生活」の虚構性に気づこうとしないって状況がさらに進行しちゃったんじゃないかと。大塚英志は糸井重里の仕事を“団塊世代が主導した消費による階級闘争”と評した。それを多くの人々は“文化でもなんでも金で買える”って誤解したまんまなんじゃないか。文化よりも資本のほうがえらいって言う。だから「かっこいい」の価値は下がった。“いいものが売れる”から“売れるものがいい”に時代は移った。文化では「感性」が差異を生むけれど資本では「情報」が差異を生む。だから「感性」じゃなく「情報」勝負の「おたく」の方法論が今の時代にマッチしているんだろう。
もし仮に80年代がスカなんだとしたら90年代は大スカである。ビーイングとかがまさに「情報」で大儲けした90年代を(作業としてはつまらないにしろ)、検証、総括する必要がきっとある。80年代の“若者文化”を創っておきながら、90年代に入るや否や80年代を断罪したJICC/宝島の反動ぶりはその研究対象になるね。