現代でも必読の人工知能批判の古典
★★★★★
題名の通り、人工知能を、哲学的(主に現象学的)観点から批判した書籍です。インプレスジャパンの「コンピュータの名著・古典100冊」に挙げられており、人工知能の研究者には必読といえる古典でしょう。
初版の刊行が1972年と古いため、現代では当てはまらない批判も多いです。実用的な成果が少ないという主張は当時はまかり通ったのでしょうが、現在では、AIはチェスやパターン認識などでは既に人間を超越しています。また、本書で批判の主な具体的対象とされているルールベースのAIは現在では「古き良きAI」(Good Old-Fashioned AI)などと言われて、ほぼ枯れた分野に分類されています。
しかしながら、本書の論旨である「人間のゲシュタルト性・現象学的側面を、離散性がベースであるデジタルコンピュータで実装できるのか?」(知能の本質は、脳の個々の機能の単純な総和を超えたところにあるのに、単に機能を個別に数え上げるだけで、知能を作れるのか?)という疑問は、現代でもなお未解決の課題であり、重要性をいささかも失っていません。その点で、現代でも一読する意義がある名著といえるのではないでしょうか。
なお、「改訂版への序論」が本文への増補に当たり、「訳者あとがき」に本書の概要と読む前の注意が書いてあるので、
1. 序文・謝辞・訳者あとがき
2. 本文
3. 序論
の順で読み進めると良いと思います。
人工知能に対する批判・・の古典
★★★★☆
コンピュータ全般に対する批判ではなく、
AI・・人工知能に対する批判です。
コンピュータによる問題解決のアプローチとしては、
処理手続きのルール化によるアルゴリズミックなアプローチと、
そのルールそのものを発見的に解決するヒューリステックな
アプローチの大きく2つあります。
ミンスキーさんらのAI、人工知能の実現性を主張する方々は、
後者のヒューリステックなアプローチの正しさを主張する。
そして、その考え方は、ソクラテス・プラトン以来の西洋哲学の伝統に依拠しているのだ、という。
序論の書き出しからして、
「ギリシア人が論理学と幾何学を発明して以来、あらゆる推論はある種の計算に
還元されるかもしれないという考え方 − したがって、あらゆる論争はこれですべて
解決できるかもしれないという考え方 − は、西洋哲学の伝統における厳格な思想家
たちのほとんどを魅了してきた。
まず最初に、ソクラテスがこの見通しを述べた。」
AI、人工知能が依拠するこの伝統に対して、
ドレイファスさん、
生物学的、心理学的、認識論的、存在論的な観点から、
アルゴリズミックなアプローチは無論のこと、
ヒューリステックなアプローチでも、原理的に解決できないのだ、と反駁します。
そもそも、その前提は誤りなのだ、と。
副題に「哲学的人工知能批判」とあるとおり、
デカルト、カントの認識論の振り返りもあるのですが、
この手の論争への切り札的な言明として・・・
正直、素人でもニヤリとするのは、
やはりウッィトゲンシュタインです。
「われわれは自分の用いる概念の間にはっきりとした境界線を引くことはできない。
それは、われわれがそれらの概念を知らないからではなくて、
そもそも概念には本当の「定義」など存在しないからなのである。
概念には定義があるはずだと考えることはちょうど、子供たちがボール遊びをする
ときにはいつでも厳密な規則にしたがってゲームをしていると考えることに似ている」
とか
「通常、われわれは厳密な規則にしたがって言語を使用してはいない −
また、われわれは厳密な規則を通じて言語を教わったのでもない」
・・・こんな世界をどうコンピュータが表現するのだ?、といわんばかりに!
さらに、ドレイファスさんのいうコンピュータと人間の決定的な差が
「身体論」であるということも、実感としてわかります。