僕も、そのひとりだ。
雰囲気はわかる。上手く言えないけれども「行き詰まった高校生が初めてニーチェを読んだときの現状打破感」みたいな、なんというのか、「迫るもの」「琴線に触れるもの」はある。
でも、その後で論点が明確になってこないのだ。「感じはわかった。共感するところも多い。でもまだなにか、核心に触れない」みたいな「感想」になってしまう。もちろんこれは、僕の(読み手の)力不足である。論点というのはことばの使い方だったりするわけで、それが共有できないと、次の一歩はかなり辛い。
しかし、たとえばニーチェだったら、本屋に行けば入門書がずらりと並んでいて、端から読んでいけば一冊や二冊は「そうそうこれこれ」と、力不足な読者でもそれなりに論点を整理できる(というのか自分のツボにはまる)本を見つけられるのだけれども、ドゥルーズなんかはそうはいかない。だからとっつきにくい。(だから上っ面の時世評論みたいに思われたりもするのだろう)
だいたい、僕のような「ドゥルーズなんて皆目わからない」読者からすると、そもそも大陸系の現代哲学は英米の哲学のような「理詰め感」もないので、まず「雰囲気はわかるけれど雲を掴むような話」に聞こえてしまうのだ。
そこで本書だ。
こんな僕でもきちんと論点がわかるようになっている。「皆目わからな」かったドゥルーズの読み方が、少しはわかるようになっている。
たった百数十ページの本のなかで「問題に食い下がる」著者の切実さが、論点を浮き彫りにしてくれるのである。
哲学とは「論理なき戯れ言」でもなければ「隙間なき方程式」でもない。本書は、「現代哲学〈者〉」の一般向け入門書としては、その匙加減も絶妙といえるだろう。
「シリーズ・哲学のエッセンス」は、ハズレもあるけど、これは当たりの一冊だ。
難しかったです。ドゥルーズの世界の記述については、抽象的な表現、象徴的な表現が多く、イメージがわきにくかった所が多かったです。その分、想像力を鍛えるよい訓練になりました。
ドゥルーズが、何を、どのように格闘したかが、わかる本でした。
卵(ラン)が生成していくイメージ。生成の流れの中で解けない問いを生きる。光に対応すべき現場がまずある。解けない問いを生きた結果、暫定的な解として視覚を得る。種をまたがって広く認められる事実だ。
まずは、システムが生成していく生を肯定する。システムが生成する流れがあって、個体が位置づけられる。同時に、個体がシステムを支えるという二面性を有する。個体は、どれとして同じものがない。しかし、それがアイデンティティを支える契機としてはとらえてはいけない。逆に、生成するシステムの内側にあって、解けない問題を解く。
個体としては、現場で解けない問題をひたすら解く。現場というのは、パラドックスに満ちていて、不条理なことも多い。しかし、システムが生成する流れは、ポジティブに肯定されなければならない。ゆえに、個体はシステムを支える、特異な存在である。
機械がこわれる、出かけるときにつまずく、言葉がからまってしまう。こういう場面では、神や世界や自我といった理念が要請される。理念とは、知覚できないし、経験もできないものだ。現場は、こうした「出来事」に満ちている。
メロディーを分解しても何もわからない。分解してもメロディーがなにかということはわからない。同様に、こうした「出来事」にあらわれる
システムの生成を支える力を理解することはあやまったアプローチだ。解けない問いなのだ。しかし、システム生成の流れの現場は、こうした問いに溢れている。メロディーの内側に身を置いて、解けない問いを解き続ける。こうしたイメージが示唆する世界は広くて、深い。
ドゥルーズの仕事は、これからどんどん整理されていくらしい。本書のような入門書に出会えて、ほんとうによかった。生をポジティブに肯定するドゥルーズの思考がどんどん世界に共有されるようになることを期待する。20世紀最大の哲学者?は、21世紀を通じて生きながらえていくのだと思う。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」に負けぬとも劣らぬ、とっつきやすさと明晰さ。64年生まれ、檜垣立哉のがんばりに拍手、である。
筆者は、80年代に浅田彰氏による紹介によって一斉を風靡したイメージはあくまでドゥルーズの応用編にすぎないとして、『ミルプラトー』『アンチエディプス』をテキストとして意図的に取り上げず、彼独特の専門語を極力排しています。
これは他のドゥルーズ入門書がいまだになしえていない試みの一つなのではないでしょうか。そうすることによって見事にドゥルーズ!!!学の底流をなす「生成」の概念を丹念かつクリアに示しています。
ドゥールーズに食あたりを起こした方も、分かったつもりの方も、薄い本ですから御一読をお奨めします。