無人島に持っていきたい一冊
★★★★★
古今東西、恋愛小説の傑作はいくつもありますが、他を断然引き離して私のダントツ一位なのがこの作品です。
読む度に胸が締めつけられ、切ない余韻がいつまでも残る。若い時からこれは変わりません。
女性の自活の道が閉ざされ、正妻であれ妾であれ、男性の庇護下に入らなければ生きていけなかった時代の悲しい物語。
主人公のお玉は、反吐の出そうな金貸しの囲い者。
世間の人から後ろ指さされ、うっ屈した日々を送る彼女は、ある日、妾宅の前を通りかかった美貌の帝大生、岡田に恋心を抱きます。
もちろんこれは許されざる恋。
囲い者の女とエリート中のエリートたる帝大生。身分違いもいいところ。それに旦那の末造はお玉にぞっこんで、嫉妬心のかたまり。浮気など許すはずもない。
恋する人が通りかかるのを、お玉は虚しく見送る日々なのですが、ある時ついに、岡田を宅に迎え入れ、親しく言葉を交わせるかもしれないチャンスを手に入れます。
これはお玉にとってたった一度のチャンス。これを逃せば次はない。
お玉は念入りに身支度を整え、大胆にも道まで出て、岡田をじっと待ちます。
しかし、ついに現れた岡田は…
たった一度のチャンスが悪意のない偶然によって虚しくついえ去っていく悲しさ。
お玉の張り裂けそうな胸の内が、息苦しいほどに伝わってくる名シーンです。
鴎外の作品は出来不出来の差が激しいのですが、これは文句のつけようのない出来。
文章も非常に読みやすいですし、鴎外は初めてという人にもおすすめです。
日本が生んだ恋愛小説の傑作をぜひお楽しみください。
青空文庫で偶々読んだのが、俄然面白くなり本を買って読んでしまいました。
★★★★☆
女の美しさを存分に引き出すことがエロティシズムと呼ばれるならば、鴎外はそれを余すところなく抽き出すことに成功した。エロティシズムとは肉欲ではなく、生命の内なる輝きのことであり、その全き観念性のことだったのだ。お玉を妾として囲っている金貸しの末造との間の性描写を鴎外が描かなかったからではない。むしろ、本妻のお常との愛想尽かしの腹いせに性描写が露骨にあっても不自然ではない。お玉が、末造が想像した以上にエロティックになっていくのは、別の理由があるのだ。他ならない帝大の学生岡田の存在である。お玉にとって末造は単なる否定的媒介にすぎない。お玉の生命、それを鴎外は「性命」という言葉を使うのだが、それを直截に賦活するのは岡田なのだ。岡田は『金瓶梅』も読む誰しも一目置く優等生であり、優秀なスポーツマン、競漕の選手でもあるが、鴎外が描くその岡田には、どことなくリアルな感じがない。抽象的で観念めいた存在に思える。この影のような形式的な描き方がお玉の肯定そのものである性命と明確な対比を浮き彫りにする。死の天使(P14)、蛇や雁の死の暗喩と、お玉の艶かしい性命の輝きがこの小説に絶妙なバランスを与えている。生と死のパラドクスとは、引きつけつつ遠ざける斥力と引力の観念的力学なのだ。鴎外はこの生と死を巡る観念のドラマを描きたかったのだと思う。一方にお玉を生命の象徴として、他方に岡田を死の象徴として明治末期の時代性を鴎外は描こうとしたのだろうか? 平成の世に生きる一評者の目には、二人の間を冷徹に観想してみせる「僕」=鴎外の、生と死の狭間で逡巡する姿が映る。生と死は連続しているとか、同じものだとかいう「達観」は、それはそれでいいのだが、鴎外のこの峻厳な対立の中に留まりつつ凝視する姿勢こそ、今見るべきものがあるのではないだろうか?
運命はただの偶然ですが…
★★★★☆
物語に何か大きな展開があるわけではないですが…
ドラマティックさが無いのに運命の皮肉さを痛切に感じました。
頭がよく外面がよいが、高慢で金銭第一な高利貸しの「末造」
貧しいながら、老いた父を一人で支え続けた「お玉」
美男子な医学生「岡田」
ほぼこの3人で話は進みます。
性格も境遇もみな違うこの3人が
ある運命的なズレ、または偶然で、ある虚しさを持つように見えます。
偶然は逆らえないほど大きい力。そう思えた話でした。
主人公(僕)がいなければ、どうなってたんだか笑
諦念
★★★★★
明治13年頃、父親と二人で暮らすお玉は、高利貸しの末造にだまされて、無縁坂で暮らすことになった。しかし、「末造の持物になって果てるのは惜しい」と思い、「往来を通る学生を見ていて、あの中にもし頼もしい人がいて、自分を今の境界から救ってくれるようにはなるまいか」と考えた。そんな折、東京大学の学生、岡田と出会う。
しかし、消極的な二人の交際は、進展する気配がない。そして、時は残酷に流れ、お玉は、「急激な身の上の変化のために、煩悶して見たり省察して見たりした挙句、横着といっても好いような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れた後にわずかにかち得る冷静な心と同じような心になった」・・・。
お玉は、岡田に救いだしてもらえるのか。 高峰秀子主演(1953年)、若尾文子主演(1966年)で映画化された。無縁坂と不忍池の情感が、暗く、重い。明治44年(1911年)から大正2年(1913年)にかけて、断続的に発表された。
微妙に苦痛
★★★☆☆
後半はすっきりとした構成だが、前半は少々だらだらした描写が多いように感ぜられる。鴎外にしては平易な文体だが、読み易いという訳でもなく、読書という観点から慮ると微妙に苦痛を伴う小説であった。私は完璧な構築性と格調高き文体でもって綴られた『普請中』が好きなのさ。