死体累々
★★★★☆
まずこの本は死体と言うか
スプラッターな表現が苦手な方には
まずすすめられません。
まず気分を害してしまいます。
江戸と言ったらリサイクル等のイメージがあるのですが
こんな裏もあるのです。
そう、死体がはびこっていて
おまけに死体は放棄してなかったことに…
なあんていうのもざらでしたし…
もう一つは試し斬りの歴史。
しかしそこに出てくる一族は
残酷とは無縁で、
使った死者を丁重に葬ったとされています。
優しさあふれる人斬りだったのです。
色々な裏を見ることができて
面白い新書でした。
大江戸アンダーグランド
★★★★★
江戸時代とはいったいどんな時代だったのか?
それは「水戸黄門」や「遠山の金さん」などの時代劇を見るだけでは知ることはできない。
なぜならそれらは「時代設定」が江戸時代なだけであって、そのなかで描かれるのは現代の脚本家によって書かれた、現代の価値観が支配するドラマであるからだ。江戸時代は日本が近代化する以前の世界であるから、本当は我々の想像の域を超えたものなのかもしれない。
このように身近なようで身近ではない世界、そんな江戸時代に氏家幹人はセクシュアリティやアンダーグラウンドなどの独特のアングルから光を当てる。
この『大江戸死体考』はその名のとおり江戸時代の「死体」についてあつかった本だ。膨大な文献を紐解くことから分かるのは、江戸時代という世界の(現代からみれば)ミステリアスな魅力だ。
水死体の異常な多さに検死する者が大忙しだったこと、刀の切れ味を測る「試し切り」に死体の胴を使われていたということ、その試し切りを見るための人だかりができていたこと、人の臓器が薬として売り買いされていたということはみな、現代を生きる我々には、江戸時代の民衆特有の猟奇的な欲望があったのではないかと思わせる。
しかしそれは、間違いだ。価値観は全領域に広がっているように見えて、空間と時間によって固有の領域がある。例えば国境を越えれば、食べないものも普通に食べる(韓国においての犬のように)。同じく現代の平和な日本においてこそ、亡くなった者の亡骸は手厚く葬られているが、時代が違えば死体のあつかい方もかわってくる。この本を読むに、江戸時代の民衆にとって死体は現代とは違い、より単純な物質として考えられていたのではないだろうか。
少なくとも(近親者のものではなく)死体一般に対しては。
今ではそれは空想することしかできない。
しかし空想の中だけだからこそ、我々はかの時代にミステリアスな魅力を感じざるを得ないのではないだろうか。
穢れと誉れ
★★★★☆
話のほとんどは介錯人として刑を執行し、残された遺体で試し斬りを行う山田浅右衛門らの話である。刑執行人というのはヨーロッパでも忌み嫌われて彼らだけの世界を形成する。日本でも同様で、山田浅右衛門は浪人でありながら試し斬りと人胆を用いた製薬販売を行い経済的にも裕福であったが、武士社会では穢れ(けがれ)として避けられ、世間からはあらぬ噂を流され冷ややかに見られていた。ただし浅右衛門とその弟子たちは「芸者」と呼ばれる一芸を極めたプロフェッショナル集団で、介錯人としての処刑や刀の試し斬りに幕府や諸藩からその存在を認められていた。明治になってもすぐれた刀剣鑑定家として名士と交流があった。
家伝の製薬「人丹」が肺病薬として名声があったというのは興味深く、明治になっても人油、骨粉などが「霊薬」として珍重されたというのは、現代の臓器移植や人体の一部を用いた薬品製造にも一脈がつながっているといえるのだろう。
知れば知るほど面白い。。ワンダーワールドお江戸!
★★★★★
試し斬り、首斬りのプロ人斬り浅右衛門事、山田浅右衛門って有名なんですかね?(ちなみに吉田松陰の首を斬ったのは、7代目浅右衛門だそうです。)
私は、全く知りませんでしたので、大変興味深く本書を読みました。斬首前の時世を理解する為に代々俳諧門に入る事になったとか、身分は、浪人のままだったがその意味は?とか、色々と興味深い話しが満載で、あっという間に読めました。ひぃえ~、仁丹って元々は、人胆の意味なのぉ?などと、ちょっぴり恐い話しや、人の斬り方などの挿絵など人斬り商売ならではの項目も含まれていますが、グロテスクでも、不気味な感じでもありません。
浅右衛門の弟子達が藩に金銭の援助や駕籠を何とか出させようとして交渉する箇所などは、どんな商売?でも、今も昔も変わらないのね。。と微笑ましくさえ感じられました。。死体考という題名に躊躇していた方もぜひ読んでみてはいかがでしょうか?江戸の新たな一面が発見出来ると思います。
浅右衛門はなぜ必要だったのか
★★★★☆
江戸の周辺文化を次々と扱っている氏家氏が、試し切りについて取り上げた著作。試し切りとは、刀や槍、長刀などの切れ味を確認するため、実際に人間の身体を切ってみることである。斬られる人間は死んでいる場合もあれば、生きている場合もある。もちろん、そのほとんどは罪人・刑死者なのだが、現代の我々から見れば驚くほどの残虐さである。しかし、江戸期にはこうした残虐さが平然と受け入れられていたかというと、そうでもない。試し切りには、プロが雇われることが普通だった。それが山田浅右衛門なのである。
本書では、江戸期を通じて試し切りの本家となった浅右衛門を、制度史的な側面からとらえている。幕府との関係、弟子の存在、諸大名との関係などである。単に興味本位ではなく、なぜ浅右衛門が必要とされたかを分析している。正当な歴史を逆照射する視点であり、面白かった。