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中核VS革マル(上) (講談社文庫)

価格: ¥520
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
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「狂気」の背景には「私たちの論理」がある ★★★★☆
いわゆる「内幕ルポ」や「戦後史もの」に押し込めてしまうことはもったいない良作。
 「学生運動」「共産主義」「新左翼」、こういったキーワードになんの興味を示すことのない、現代の学生こそオススメ。
 
 確かに、学生運動や共産主義が歴史的遺産となった今、中核や革マルの当時の主張を知ることは、トリビア的な知識の枠を出るものではない。しかしながら、優れた歴史書はそこに何かしらの法則があるように、この本も現代に生きる私たちに多くの教訓を与えてくれる。
 
 例えば、次のような記述。
 
 「この警察の取り締まりによってデモをする側は極度の無力感にさいなまれた。この無力感が、ゲバ棒路線に走らせたといってよい。無力なものが力をつけるためには武器の力を借りるほかない。」(P117)
 「そのレールはお互いに、相手の党派を、革命党派を称する反革命党派とみなすことの上に敷かれていたのである。ちょうど宗教戦争の時代が、プロテスタントもカトリックも互いに相手の党派を、神の名を唱える悪魔集団とみなしたことではじまったように、この二つの『革命の信者集団』も互いに相手の奉ずる神の中に悪魔を見たのである」(P239)

 1970年代の中核・革マルの内ゲバの過程を丁寧におっていくことで、「集団はどのようにして一線を越えてしまうのか」「なぜもとから対立する組織間より、仲間われした組織間のほうに強い憎悪が働くのか」など不偏的な「内ゲバの論理」を描き出している。上の記述は、オウム真理教が暴走した理由などにも当てはまるところが多いのではないだろうか。

 現在私たちは、「共産主義革命」とは(一時的に)無縁の時代を生きている。だが、私たちが集団生活を営む「人間」である以上、どこかでこの本書が指摘したような「内ゲバの論理」から無縁ではいられないのだ。 
 中核・革マル問題を「殺人を繰り返す狂人集団」で片づけず、執拗に「私たちの論理」をそこに読み取っていく、著者の情熱にはただ圧倒される。
エスカレートする内ゲバの迫力ルポ ★★★☆☆
「内ゲバ」…子供のころニュースで聞いたこの言葉には何か陰湿な、そして過激な印象をもった記憶があります。本書はまさにその言葉に象徴される「中核派」と「革マル派」の抗争を詳細にまとめたルポです。
もともと日米安保や三里塚抗争などを背景に、左翼的活動団体として公安当局とぶつかっていた両派が、ちょっとしたボタンの掛け違い(と読者には思える)から対立し、お互いの構成員を殺しあうまでになっていく様が、著者の圧倒的な取材力と文章量によって明らかになっていきます。
ゲバ棒や鉄パイプなどで頭を殴り続けるような行為が行われ、(その筋の人ではない)一般人がここまでできるのか?と空恐ろしくなる感じがします。こんなことがほんの30年前に行われていたとは…。
彼らはいったい何のために戦っていたのか。素朴な疑問が消えない読後感をもちました。
「共産主義」と「宗教」 ★★★★★
この本で立花氏が例えたように共産主義と宗教の類似を指摘する人は少なくありません。

「既存の宗教の否定」「善悪二元論の教義」「弱者救済」「ユートピア思想」「教条主義」など、だからこそ老若男女、人種や国境を越え、世界中の人達に支持されたのではないでしょうか。

そう考えれば中核派、革マル派を含めた共産主義者の言動は不自然ではないと思います。「神の寵愛(革命)」と「地上の権威(革命の果実)」を独占するための異端と異教徒との戦い、ということだと思います。
タイトルについて ★★★★☆
 本書タイトルは私にはヤクザ映画を思わせた。この私的な印象を以て考えると、
 人間社会において、人間は集団組織(政党、教団、会社、暴力団等)を作る。そして派閥が生まれ、対立し、抗争を繰り返す。ヤクザはその意味で非常に分かやすい組織である。高邁な理想を掲げた組織でさえ、その鎖から逃れることは出来ない。(もちろん、新左翼はヤクザではない。)
 
 本書は抗争のあった同時代に書かれた。その一点からも読むに値する1冊であると思う。
最初の100ページだけでいいって感じ ★★★☆☆
両派のよって立つ由来と立場の違いなどを記述た最初の99ページまでは、「あーなるほどそうだったのか」であるが、それ以降は抗争を経時的に追っただけのルポであって知的好奇心だけを求めて読むには退屈である。
、ということで私は別の本を探して読むことになった。