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漱石と三人の読者 (講談社現代新書)

価格: ¥777
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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本書自体が、少なくとも2タイプの読者を意識して書かれている ★★★★★
●フェミニズム批評やポストコロニアリズム批評が、「文化との対話抜きで」(P40)まるで女子高生の感想文のような(P19)漱石批判をまき散らしている。

●テクスト論者と自己規定する著者が(P234)このありさまに業を煮やし、「漱石がどのような読者層を意識していたのか(これが本書のタイトルの意味するところ)」という視点からあえて漱石研究に乗り出したのが本書である。

●つまり、この本自体が、表向きには「漱石文学の新しい読み方」を「顔の何となく見える漱石ファン」に解説することを意図しつつ、同時に「勝手な言説で漱石作品をバッシングするフェミニストやポストコロニアリスト(顔の見える読者)」をチクリと刺してやろうという裏の意図をも秘めていたのである。

●これまでの漱石研究を多数参照しながら漱石の創作意図を丹念に解き明かしてゆく見事なお手並みは、私のような「顔の見えないただの漱石ファン」読者も十分に満足させてくれるものであった。漱石を論じるだけあって、文章もひじょうに巧い。
漱石作品の多層性 ★★★★★
漱石研究の第一人者ながら、今や受験国語対策の方が有名になりつつある(笑)石原先生の新書。

大学教師の余技として小説業を始めた夏目漱石は当初、個人的に親交のある「顔のはっきり見える存在」しか読者として意識していなかった。『坊っちゃん』の差別性は、漱石が身近にいるトップエリートしか読者として念頭に置いていなかったことに起因する。

しかし広く社会に向けて発信したいと思うようになった漱石は大学を辞して朝日新聞社の専属作家となる。新聞小説家となった漱石は、朝日新聞を読む中流階級を「何となく顔の見える存在」として意識しつつ執筆することになる。

ところが漱石は、入社第1作『虞美人草』において読者の裏切りに遭う。漱石自身が「徳義心が欠乏した女」として描いた奔放なヒロイン藤尾を読者が熱烈に支持し、藤尾ブームは「虞美人草浴衣」や「虞美人草指輪」という形で小説そのものを読んでいない庶民をも巻き込んでいった。ここにおいて漱石は「何となく顔の見える読者」の真の需要を知り、また漱石の小説をきちんと読みもしない「のっぺりした顔の見えない」ような第三の「読者」の存在に気づき始める。

以後、漱石は「顔のはっきり見える読者」、「何となく顔の見える読者」、「顔のないのっぺりとした読者」の3人の読者のそれぞれに対応する形で、多面的に小説を執筆するようになった・・・・・・これが奇妙なタイトルの意味である。「テクスト論」を踏まえ、更にそれを超克しようとする、その雄大な構想と緻密な構成には舌を巻く。


『三四郎』における三四郎と美彌子との邂逅シーンにおける分析には恐れ入った。漱石は確かに、東大構内を良く知っている身近な読者(東大生、東大卒)にだけ、このシーンの本当の意味が分かるように書いたのだろう。教養高く生意気な弟子たちへの謎掛けであり、挑戦状だったわけだ。
一方で多くの同時代読者(朝日新聞を購読している中流階級)はこの小説を「三四郎が美彌子に翻弄されながらその恋心を育てていく、三四郎と美彌子の淡い恋の物語」として読んだ。そうも読めるように漱石が仕組んだ、と著者は説く。
更に「顔のないのっぺりした存在」である庶民層にとってもリアリティーが感じられるように、故郷の幼馴染みである御光との結婚話という展開まで用意するという漱石の周到さには感心するが、そこまで読み取る著者も凄い。著者は引き続き、漱石作品の多層構造を『それから』においても指摘する。

また著者は、漱石後期三部作の複雑な構成は、毎日の新聞連載を読み捨てていく「何となく顔の見える読者」には理解できなかったはずで、前半に戻って読み直すことのできる単行本読者(高価な単行本を購入することのできる裕福な特権階級)=「顔の見える読者」のみに小説世界の全貌が分かるように仕掛けた、と喝破する。「前者は職業作家漱石の仕事であって、後者は芸術家漱石の密かな楽しみ」と捉えて、後期三部作を読み解いていく。

その解釈はスリリングだが、「テクスト論」の中での漱石研究の成果が(紙幅の都合で?)省略されてしまったのは惜しまれる。特に『こころ』の場合、小森陽一の研究に見えるように、「手記」の書き手である青年の「その後の物語」、つまり『こころ』本文に「書かれなかった物語」を、書かれている断片的な言葉から再構成することが盛んに行われたからである。「先生」が自殺した後、残された「奥さん」と「私」との関係をどう考えるか。「私」が遺書を「奥さん」に届けて、彼女と共生関係になるというのが小森の読みだが、確かに執筆中の漱石の頭の中には「その後の物語」があったと思われる。

ともあれ、小説の奥深さを知るには格好の入門書であろう。
『こころ』の身勝手さに「特に女子高生からの反発も少なくない」(p19)って、そりゃ当然です! ★★★★☆
 漱石が「顔のはっきり見える読者」、「何となく顔の見える存在としての読者」、「顔のないのっぺりとした存在としての読者」という「三人の読者」を区別し、各々に異なる読みが可能となるように書いたという仮定の下、その作品群を読む。「顔のはっきり見える読者」が同時代の文壇などの誰彼だったというのはよいとして、後二者の区別については『彼岸過迄』の分析が分かり易い(p196〜)。
 ま、それはそれでソコソコ面白かったのだけれど、実は本書で一番興味をそそられたのは、引用された大杉重男の議論。漱石は同時代の中流市民という閉じた空間しか意識せずに書いたが、たまたま現在の日本人の大部分が「中流意識」を持つ均質な存在となったがために漱石が意識していた読者層と重なり、彼を国民作家の地位に押し上げる結果となった、というもの(p42)。
 著者は大杉の議論の説得性を認めつつ、「漱石はなぜ現在も読まれうるのか」と問う(p49)。著者の用いる知識人・大衆・他者などの概念と「三人の読者」の関係付けにやや曖昧さが残る印象もあるが、私なりに要約すれば、それは漱石が「三人目の読者」の視線を作中に取り込み得たがゆえに、この視線に照らされて当時の知識階層(→現代の新中間大衆?)の相貌がくっきりと浮かび上がるからだ、と(p230)。
 しかし、だとすれば「中流幻想の崩壊」が囁かれる現在、国民作家・漱石の神話もまた安泰ではないだろう。最近、本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』を読んだせいか、ますますそう思う。漱石が三人目の読者を「女」という形式で作中に導入し得たにしても、それを主人公とはできなかった。しかし今や、アウトカーストだった「女」たちこそが自ら口を開き始めている。著者にもその予感はあるようだが(p19)、「それにもかかわらず、なぜ」と始まる直後の一文によって、残念ながら問題は抑圧・隠蔽されてしまったようだ(p20)。
漱石が「敢えて書かなかったこと」に注目した読み方を提示 ★★★★☆
 タイトルをみて、具体的な読者の名前が出てくるのだろうと思って読んでみたら大間違い。読者を三種類に分類、それぞれに向けて漱石がどのように書いているかという分析を通して、漱石を読み直すという試みがなされた書であった。
 私は読者の話というよりも、漱石が「敢えて書かなかったこと」に注目した読み方についての解説を大変面白く読むことができた。特に三四郎部分の分析は、文学を研究する人には大変参考になるのではないだろうか。
いまさら漱石を論ずる理由 ★★★★★
 夏目漱石は日本の作家の中で最も研究されているひとりであろう。著者の石原氏は現在の漱石研究の第一人者として知られているが、もうさんざん研究され尽くしてきた漱石をさらに極めるということがどういうことなのか教えてくれるのが本書である。
 「新聞小説」という視点からの見方も教えられることが多いが、一番驚いたのは「三四郎」の分析だ。実際にこの小説で三四郎や美禰子が歩いた三四郎池の周りを実際に歩いて視界を分析してみるとは! なるほど、そこまでしないともう漱石研究など不可能に違いない。文学研究とは何なのか、易しい語り口の中に教えられるところの多い書。