しかし実際には『こころ』は、先生の遺書を受け取った青年が先生のもとへと列車に飛び乗るところで終えられており、読者である我々にはそれ以外には遺書が残されるだけです。人間全体を信じることが出来なくなってしまった先生の過去の秘密を知る上で重要な存在となった、唯一先生が自分の命と引き換えに過去を話してもよいと思えたという青年のその御はわからないままなのです。
この本の編者の一人である小森氏はそこに新しい読みを提示した第一人者です。先生の死後に残されたのは奥さんと青年の二人。その後になって青年は、自分だけに託された先生の遺書を、自分の手記とともに書き残します。そうして出来上がったのが『こころ』なのですが、その青年が遺書を受け取ってから生きてきたプロセスを重視するという視点を見出したのが小森氏です。
この本は、先生と青年との交流の有名な物語についての3人の批評家による小森氏への反論と小森氏による回答、討論の記録、そして評論家6人による補論という構成になっています。
中盤の討論は作品の読みということの捉え方が論じられており、少々専門的に感じますが前半と後半におけるひとりひとりの『こころ』の読みを見ると、最初にこの作品を読んだときの自分の感想を疑ってしまうほど洞察力にあふれたもので、彼らの視点はどれも個性的で新しく、鋭い議論がなされています。