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「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本
ブランド: 旬報社
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「不器用な若者たち」という問題提起 ★★★★★
 貧困,社会的排除に関する著作の中でも、このレビューの執筆者が特に関心を持ったのは編著者たちが「不器用な若者たち」と呼ぶ労働市場と福祉の狭間に落ちこんだ若者たちのことだった。この一群の若者たちの中には医学的には軽度の知的障害・精神障害と診断されるものが少なくないとされている。

 知的障害・精神障害者支援,福祉の分野ではじっさいにいると推定されている当事者の数に比べて支援,福祉の対象となっている当事者の数があまりにも少ないことが話題になることがあった。彼女/彼らがどのような生活をしているのかはあまり知られていなかったが、そのうちの一部が深刻な生活困窮に苦しんでいる実態が分かった。

 自らが軽度の障害者であり、労働と福祉の狭間に落ちこんだ障害者と関わる身として、無知であったことの責任を痛感する。これを医療の問題とするのではなく、彼女/彼らが少しでも生きやすい社会にするための取り組みが不可欠であると感じた。
自己責任という言葉のおかしさ ★★★★★
具体的な提言がいくつもなされている。いろいろ援用できそうにも思う。ここではあまり触れられていないが、今後は障害者自立支援法や介護保険制度、後期高齢者医療制度のようなむちゃくちゃな制度と絡めて相互に考えていかなくてはならないのだろう。

一人の人間が存在することが社会にリスクとコストをかけさせるという発想のおかしさを、最近の日本社会は忘れていたのではないか。こういう切り口で世の中を見ることがヘンだよと言えない裸の王様状態に、最近の日本は陥っているのではないか。自己責任もそう。どうしてこれまで、これがヘンだと言えなかったのだろう、言い出す人がいなかったのだろう。湯浅氏たちのやっていることは、そういう意味だけでも尊敬に値する。
研究者と活動家による“貧困”課題報告 ★★★★☆
 機会の、意欲の、教育の“貧困”と、社会に蔓延する自己責任論からなる生きづらさの現況報告が、鼎談によりなされている。

 本来重要視されるべき公的社会保障が“貧困”な日本で、それを代わりしてきた企業福祉も崩壊の局面を迎えて、今までどおり苦境の原因は自己責任にあると、世論だけでなく家族や本人でさえ思考停止していていいのかと再考する意味でも、先ずは本書の示す“貧困”の実際が人口に膾炙されねばならない。
 その上で尚、自己責任論に終始し、仕事に就くための力を身につけさせることもなく、社会扶助制度の仕組みや申請方法についても教えていない学校教育の、扶助申請を受け付けず生活困窮者を放置し続ける行政・政治の公的責任と、人を値踏みし、使い捨て労働力としてきた企業の責任の双方を不問にし続ける今の「生産活動を行えない人には死を!」世論が続くのならば、それは既に国としての体をなしていないと言わざるを得まいし、器用でないだけの人まで“貧乏”にさせらるハードルを下げるのならば、その膨大な人々による“貧困”の再生産までも、器用な人々は社会扶助を担うつもりがあるというのか、と問わずにはおられない。

 “貧困”の再生産スパイラルや、それにはまらずに済んでいる人々による負担についてや、“貧困”解決に向けての一手がズバリと書かれているわけでない点は歯がゆいが、人の痛みを、全ての人が一時的に痛まずに済んでいるだけだと認識できず、自分の痛みとしない社会であれば、全ての人が切り捨てられるのだとの思いを新たにする鼎談である。

 
”溜め”なき日本社会、いずれこぼれおちるかもしれない”わたし” ★★★★☆
貧困問題の現場で活動をしてきた運動家と、貧困や若者労働の研究者の対談・鼎談集。
頼るべき物がまったくない、”溜め”なし状況に置かれた労働者と直に膝をつきあわせてきたがゆえの切実な問題意識に立った上で、いかにして現実の社会制度を変えていくか、という実践への言及が展開される。
そこには、上から目線の「机上の空論、終わり!」とは、まったく正反対の姿勢が窺える。

「希望は、連帯」。 
どこかで見覚えのあるような最終章のタイトルだが、そうはいってもこれが本書の鍵だとわたしは思う。

たとえば、同じ非正規雇用労働者でさえ、”溜め”のあるやなしやは人によって違う。
そこを、「わたしは、まだマシでラッキーでした」、といったような比較優位トリックにごまかされた卑下た優越感で癒すんじゃなく、
どれだけの人が、”我がごと”ととらえ共感を呼べるか、が問われている。

どのみち確実に少子高齢者化していきつつある日本社会。
しかも世界経済不況の下であたりまえ化しつつあるリストラ労働市場。
誰もが迎えなきゃいけない老後を、ちっとでも不安少なく迎えるには、
見通しのきかない将来に備えた貯め込みよりは、社会政策の充実だよな、と個人的に思う。
大きい範疇での”人権”の充実は、よほどの勝ち組強者を除けば望ましいだろうな、と。

そうはいっても、大枠の制度の充実とともに、ニーズに添った「個別ケア」の重要性について書かれたあたり(3章)を見ると、きめこまかな手当は、そりゃ大切だろうけど、タイトな財布じゃ限界が出てくるんじゃないか、といった心配もしてしまう。
これが、余計な心配でなくなれば、さぞかし住みやすい世の中になるんだろうにな、と希望すると同時に。