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漢文と東アジア――訓読の文化圏 (岩波新書)

価格: ¥840
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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訓読法の基礎には漢字を自国語の表意文字にすることが必要。その辺の吟味がない。 ★★☆☆☆
 千字文の読み方を朝鮮にかろうじて残る訓読みの痕跡としているが千字文は漢字学習の教材であり、読みと意味を並べて読むのは普通、従ってこれを訓読みの痕跡と言うのは誤りであろう。
 漢文訓読法の基礎には漢字を自国語の表意文字にすることが必要。山=やま、村=むら、花=はな等と自国語の単語に漢字を割り当てることが必要。そうなれば漢字の意味に関して翻訳不要になる。そうなって始めて語順を入れ替えるだけで漢文から和文への翻訳が可能になる。朝鮮やベトナムでは訓読みを許していなかったため大半の固有語が消えてしまっている。固有語で読むことが訓読みであるから固有語が消えてしまえば訓読みはできない。「山」や「村」は朝鮮語では固有語がなくなっているので音でしかよめない。従って訓読法があったとしても不完全なものでしかありえない話である。実際朝鮮語の訓読みと称する物は最終的に諺解という朝鮮語に訳さなければ意味がわからない代物である。著者は意図的に訓読法を誤解しているのではないか。朝鮮やベトナムでは漢字は自国語の表意文字ではなかったために不要と判断され捨てられたといえる。いずれにしても漢字が消えてしまった国でどのように読んでいたかの話で不確かで、怪しく、そして虚しい話と言わざるをえない。
 古今集以来、伊勢物語、源氏物語、平家物語、今昔物語、正法眼蔵、徒然草、方丈記、奥の細道、雨月物語など殆どの重要な本は漢字かな混じり文で書かれている。漢文で書かれた文献は漢文訓読法で漢字かな混じり文に変換して大和言葉で理解するのが日本である。漢字かな混じり文は大和言葉の表記法であり、1500年前の大和言葉は殆ど変わらずに現代でも使われている。ハンチントンの言うとおり日本は独自の文明国で漢字文化圏というと日本の本質を誤って捉えることになると言う印象を抱いた。
 日本語では訓読みが主で音読みは従である。例えば藤原道長、源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康などは全て訓読みである。空、雨、霧、雷、海、川、道も訓読みが基本である。訓読みは日本語読みで、日本人には訓読みの方が分かりやすいのである。漢字が訓読みを通して強く大和言葉と結びついている事実を知れば「強い訓読廃止論があった」等ということはあり得ない、訓読みを廃止すれば日本語が成り立たなくなるからである。著者はもっと日本語のことを勉強すべきである。日本語における訓読みの役割の大きさと深さに著者が気付いていないと言う意味でトンデモない本になっている。
共通の書き言葉、独自な読み言葉、 ★★★★☆
中世ヨーロッパでは、共通語はラテン語でした。同じように、東アジアでは、漢文が共通の書き言葉だったそうです。日本と朝鮮の通信使とは、互いに漢文を書いて相手と筆談し、意思を疎通しあった。またヴェトナムと朝鮮の外交使は、北京で会う際に、互いに漢詩を贈っていたそうです。中国の周辺国は、自国の言語は維持。漢文は正式の書き言葉や漢詩の作成用に輸入。進んだ文化が書かれている漢文は、中国語として読まずに、各国語毎に、自国語に引き寄せて読解する読み方があったようです。日本では、漢文に訓点を付けて、日本語の語順に直し、日本語の助詞を補い、日本語通りに読み下す読み方が、行なわれました。

本書は、日本で独自に作られたと思われてきたその訓読、訓点を、一国史観から解き放ち、東アジアの中で、漢字を使っていた中国の周りの国々(新羅、ヴェトナム、契丹、ウイグル、現代中国など)を調査。訓読は日本独自ではなく、それ以前に朝鮮半島の新羅に見出される。更に、訓点の大本は、中国が、梵語の仏教書を翻訳する際には、訓読みと同じような訳し方をしている点にあると考えられる。日本の訓読みの先行者として、新羅、中国があると、著者は、指摘しています。

日本で行なわれていた、博士家毎に違うような様々な訓読み法を丁寧に解説。他の言語での訓読みの具体的な付け方も、判りやすく述べられています。また訓読みの具体的な読み方にとどまらずに、その文化的な背景、影響なども述べられていて、訓読みから広い文化的な視野が広がっています。訓読みの東南アジアでの広がりを確認できます。また漢字の受容の仕方が、各国毎に異なっていたことが改めて良く判ります。強い高度の文化外圧をどう受容するか。その仕方で受容する側の文化の特質が分かってきそうな点に、興味が湧きました。
梵語→漢文、漢文→和訓 ★★★★☆
古来より、日本には漢文の「訓読」という風習が存在している。
語順を入れ替え、日本語の読みをあてて、漢文(つまり外国語)を奇怪な日本語に変換してしまうのである。

その結果、日本人にとって漢文は「何となく読めるが、ちゃんと理解するのは困難なもの」になってしまった。
たとえば、漢文訓読では「置き字」といって読まない、訳さない字がある。しかし、それは原文では微妙なニュアンスを伝えているのであって、決して不要なものではない。

ようやく江戸時代になり、荻生徂徠が「外国語は外国語として読まなきゃダメだ」という当たり前の主張をするが、決して主流になることはなかった。
訓読の弊害を改善しようとした佐藤一斎の「一斎点」という方法も、問題点を全て解決してくれるものではなかった。

こうした功罪相半ばする「訓読」という文化状況を、我々は日本に固有の現象と思いがちである。だが、そうではない。
本書によると、日本や朝鮮、ひいては東アジア全体が、多かれ少なかれ似たような「訓読」を行っていたのである。

しかも、それは「漢訳仏典」にそのアイデアを得ている、というのが本書の主張である。
仏教伝来によって、梵語で書かれた仏典は漢語に翻訳されることとなった。
このとき、サンスクリット語と中国語はちょうど語順が逆になるのである。

とすれば、この手順をそのままひっくり返せば、漢語→和訓という訓読が成立することになる。
つまり、訓読は日本人の発明などではなく、すでにあった「漢訳仏典」の作業手順を逆向きに真似たに過ぎないのだ。

本書によれば、ここから「インド=日本」という奇妙な世界観さえ成立したともいう。
たとえば「神仏習合」という教義は、このような比較言語学的知見に支えられているらしい。

とはいえ、サンスクリット語と日本語は全く別の言語である。
「梵語と漢語は語順が逆、漢語と日本語は語順が逆、ゆえに梵語は日本語である」というのは詭弁に過ぎないだろう。
だが、かの慈円でさえこのような世界観をいだいていたらしいから驚きである。




ダイナミックな漢文世界 ★★★★☆
 中国文明は高度な文明を花開かせ、周囲の民族はその影響を強く受け、大いにあこがれの気持ちを抱いた。しかし中国語と周囲の日本・朝鮮・アルタイ諸語は音韻や文法が非常に異なり、そこに文化間のせめぎあいが生じた。
 結果として、普遍的な中国文明と個別民族文化のダイナミックスにもとづく漢文文化圏が成立した。本書はその文化圏の様相について、身近な事例から説き起こす。テーマとしては必ずしも目新しいものではないが、「訓読」を中心に据え、中国語内の歴史的変化、また日本・朝鮮・ウイグル等の民族間のインタラクション、近代の日本から中国の方向も論じられている。
 情報化や中国の強大化なども鑑みると、今後どんな変化が見られるのか、色々と想像してみるのも楽しいことである。