「序列」意識が妨げる日中韓の対等な関係
★★★★★
近年インターネット上で、中国・韓国(北朝鮮)に対して理性的に批判するのではなく感情的に反発するだけの発言が増えていることに違和感を感じていたが(明治期と冷戦期に日本にとって最大の敵だったロシア・ソ連に対する批判はこれほど感情的ではなかったと思う)、本書を読んで儒教的世界観に基づく華夷思想を日本人も含めた東アジア諸国の人間が共有していることが、日・中・韓が互いに嫌悪感を持つ理由だと教えられた。つまり儒教に教化された人々が主体的に社会のために行動しようとすれば、他の成員と倫理・道徳面でたえず序列を競い合うようになること、即ち「序列」というものが儒教的世界観の核心であり、その世界観を極端にまで徹底させた社会にいるのが、北朝鮮の「革命的」国民や特攻隊隊員なのだ。
著者の考えでは、日本では明治期にはじめて儒教思想が一般大衆にまで普及した。つまり江戸時代は、儒教の理念を行動指針にしていたのは武士階級に限られていたが、明治になって国民すべてが儒教的意味での主体を形成し、社会における序列争いに参加出来るようになると同時に、国家間関係にも序列意識を投影するようになった。また日清・日露戦争に従軍した一般兵士が朝鮮・中国の後進性や清潔感覚の違いを実見したことも重なって、国民の間に近代化に成功した日本を頂点とする国家間の序列意識が広がり、中国・朝鮮に対する優位感情が育っていった。それに対し、第二次大戦後に国家体制を整えた中国・韓国(北朝鮮)でも、その過程ではじめて、儒教思想が一般大衆にまで普及したのだが、国家の統合を強化するためにも、かつての日本の軍事的侵略を、儒教的観点から道徳的悪行として糾弾することが求められ、日本を倫理・道徳的に劣った存在として自国より下位に位置づける序列意識、日本に対する優位感情が育っていった。
これからの日本人は、すみやかな近代化に成功したという過去の歴史によって、中国・韓国への優位感情を維持しようとするのではなく、彼らと深く関わり、その歴史観をより自由度の高い日本の方へ引き寄せていくよう努力すべきだと著者は提唱する。日本人は長期的視点でこれを実践し、東アジアに残っている儒教的国家観、つまりそれぞれの国民が持っている他国への優位感情をなくし、序列なき対等な関係を築いていくよう努力すべきだと述べているが、とても賛同した。
歴史認識に対して主体的であることの必要性
★★★★☆
著者には数年前のNHKハングル講座でお目にかかったし、チャングム本での対談も拝見した。歴史認識を巡る隣国との摩擦に対し気鋭の学者がどのように考えるか、関心をもって本書を手にとったが、ここまで東洋哲学が議論される本だとは思わなかった。頁数の関係もあり、疑問点も残るが、鋭い指摘に肯く点も多々ある。以下、私の理解を列挙する。
1.歴史認識の客体とならず、その呪縛から逃れるためには日本人が「主体性」を持つことが肝要。
2.韓国人の攻撃的な言辞に対し日本人が不快感を理性によって抑えこむという「ゆるし」は実は精神的な優位に立つこと。韓国人が日本人をゆるす場合も然りで、これは歪な関係。
3.東アジアでの歴史認識を複雑なものとする理由として、各国が近代化後も朱子学の影響を免れておらず、朱子学の理と主体論に内在する階層性により、国家の序列化、ひいては過去はこうあるべきだった、否そうに違いないというバーチャル・ヒストリーの争奪戦という様相を呈す。朱子学の論理の正否は私には判断不能だが、たしかに自国の歴史を都合よく記述・教育しようと競い合う傾向は否めない。
4.歴史認識問題を解決するための新しい主体とは、揺らぐことを厭わず、他者への共感や悼みという感情をも包摂する。
5.従来の左派・右派等の限界を越え、新しい主体たる日本人はセンターの軸を確立すべきであり、それは「謝罪し国際貢献する日本」である。後の各論は本書で確認して欲しいが、若い日本人が古い世代の責任をとるべき理由、経済活動のみに専心する歪な存在からの脱却、国立の追悼施設の必要性、民主主義という価値観等で今ほど共通性を持つ韓国との連携等が説かれる。
朱子学の難解な論理の展開が本書の約半分を占めるが、結論はいたって穏当。著者もまたセンターにおいて若干左右に揺れているのだろう。歴史に対して真に主体的でなければならないという主張はよくわかった。
ひたすら謝罪でもなく、自らに非はないとするのでもなく
★★★★☆
「自由と民主」「謝罪し国際貢献する日本」
この2つを軸とし問題を考えて生きましょうとする基本姿勢には賛同す
る。すくなくとも民主主義ではない国家から非難されたからといって、民
主的手続きを踏まえて選ばれた政府がその見解を変えなくてはならな
いわけではないというのはきわめて当然のこと。教科書について選択権
のない国家が、選択権のある国家へクレームをつけることに右顧左眄
することはない、という点で激しく同意。ただし、残念なのは、「謝罪」と
「国際貢献」について具体的な言及が存在しなかったこと。
また、左翼右翼間、もしくは日中韓の対話を阻むものとして、人間や
国家における序列化とセットとなった東アジアの朱子学的な主体意識
を問題としているが、ちょっと唐突というか、著者がその前に書いた論文
とかを読んでれば話は別だったかもしれないが、論を進めるに急な気が
してしまい、もちょっと論証等補強が必要ではないかと思う(論証や論
理展開の甘さは全般にわたって言えることだが)。
ま、ともかく、なんだかんだいって、結構ましな本ではないかと思うけど。
「中間」を装った左翼の「対話」
★☆☆☆☆
まず、はっきりさせておかねばならないが、著者の主張は「中間」でもなければ「センター」でもない、単なる左翼・サヨクのそれと同じである。コミンテルンを批判して見せたり、右派も左派もだめだと、「中間」らしい反応は示すが、よく読めばわかるとおり、歴史観も主張も左翼そのものである。つまりはシナ、韓国、北朝鮮という全体主義・独裁国家に利するものである(韓国は民主主義を装っているが)。
著者は哲学を専門としているはずだが、それらしい気配もなく、「従軍慰安婦」など歴史学的に破綻しているものを、何の考察もなく前提にする。あるいは、日中韓での共通の歴史観を持てる・持つべきだと説く……。私は著者の本を始めて読むが、このような幼稚な議論では「哲学」的に歴史認識を語ることはできないだろう。「中間」派を騙り、深い考察もできないのならば、荒井信一や田中宏のように左翼の立場からはっきりと主張するほうがどれだけマシなことか。
歴史認識の問題というのは、なんのことはない、「全体主義vs民主主義」に他ならないのだから。
中間派のために
★★★★☆
書店には扇情的な右派の本がズラリと並び、一方でアカデミズムは残存左派の巣窟と化している中、私を含め本来は圧倒的多数であろう中間派のための最適な書物である。
中間派は右には「反日」と罵られ、左には「右翼だ」と罵倒される。しかし、何らかの運動になど関わっていない圧倒的多数の人々は、「戦争では日本はやっぱり悪いことをしたと思う、でも、だからといって中韓がいつまでもそのことを持ち出してくるのは腹が立つ」という「穏当」な主張を持っているのだと思う。今のように、「右じゃないなら、左だ」という二者択一を迫る世情には、ほとほとうんざりしているのではないか。
同書で展開されている理論は「中道右派」ぐらいの位置づけになるだろうか。儒教理解など多少アヤシイ部分もあるが(著者のそもそもの専門がドイツ文学なので、仕方がないかもしれないが)、しかし今では珍しい、正真正銘の「中間派」の本であると思う。