「父母未生以前本来の面目」は何か?
★★★★★
「十四」以下が圧巻。
辻邦夫の末尾解説もよかった。
三部作で最も好きな作品となった。
内容に言及しています、
★★★★★
ちょっとした落ち着きを感じる、夫宗助と、その妻御米(およね)、夫婦はひっそりと暮らしていていたのですが、宗助の弟小六(ころく)の学費の事で問題が発生し、交渉を行わなければならなくなったのですが...というのが始まりです。穏やかそうにみえた暮らしを営む夫婦の今はどのようにして成り立ったのか?またある救いを求めさまよう宗助の心の置き所は見つかったのか?という作品です。
内容に言及しています!
どんな時代であったとしても、不変的テーマの一つだと思いますし、安易な解決策が示されるわけでもなく、それでいて破滅的な局面があるわけでもなく、それでも読ませる作品でした。「こころ」も好きですが、今現在「門」を読み終わった後としては私は「門」が作品として、私の好みとして好きです。
宗助の性格の変化、諦観に至った状態、そしてある偶然からかき乱される心情、どれもとても理解できますし、妻御米をいたわる部分がリアルに感じられました。最初のエピソードでもある、ある漢字が気になって疑り始めると全く分からなくなってくる、という部分に宗助の傾向を納得させられてしまいました。やはり文章がとても上手い、奥行きがあるのもそうですが、月並みですが風情ある、季節感じられる描写、不自然でない対比、作為をきちんと隠す技術、匂いたつ描き方、次第に明かされる過去といった構成、そして比喩。どれも素晴らしかったですし、この世界に入り込んでしまいました。比喩にいたってはほとんど全編に至って出てこないのですが、計算されたにしても見事なくらいのタイミングで、カタルシスを感じさせるタイトルとの直喩が、私にはとても重く、感嘆しました。あたりまえかもしれませんが、上手すぎです。いろいろな読み取り方が出来るのでしょうけれど、簡単に抜け出せない日常と日々積み上げてきた、あるいは積み上げるしかなかった物事の結果を受け入れる(それももがいた挙句の!もがく事をしない最初からの諦めではない)宗助と御米の穏やかな日常に帰ってゆく部分が最初の場面と重なってまた良かったです。
新聞でこのレベルを連載されたら、みんな新聞読みますよね。また、当時としてどんな評価だったのか?も気になります。今の作家さんでいったらどんな方に該当するのでしょうか?人気がある新聞作家、もう絶滅してしまったように思われます。
淡々とした日常から、宗助や御米の人柄を浮きあがらせ、少しだけ不明な部分をフックとして読み手を惹き付け、なお展開まで伏線とは気がつかれにくいようにし、その上キャラクターが読み手に充分伝わったところで過去を語ってゆく構成など、本当に素晴らしかったですし、王道です。だからこそ少し気になる点について。
私は新潮文庫版を読んだのですが、この新潮文庫の背表紙に作品のあらすじというか紹介があるのですが、いかがなものでしょうか?2人の過去が分かっていたら、ある邂逅を知らされていたら、こんな不親切で、おせっかいで、知ったかぶりたがる紹介はいかがなものか?と思うのです。この文章の書き手のセンス無さと虚栄心がにじみ出ていて非常に気に障ります。この点が不満でした。
夏目漱石さんがお好きな方に、あるいは全ての日本人の方に、オススメ致します。私の中では「こころ」がどんな方にでもオススメするベストの作品に変わりは無いですが、個人的にな好みとして、作品の扱う世界の大きさとしても、「門」が1番好きです。
それからのそれからは?
★★★★☆
「三四郎」「それから」に続く漱石前期三角関係三部作の最終作。それにしては前作「それから」が、だらだらした進行が最後に一気に、緊張感をもって真っ赤に燃えて終了するのとは違い、今回はだらだらした状態が最後まで続く。 モンゴルアドベンチャーも最後まで、主人公とは遭遇せず、御米もそのまんま。大家の崖下に住んでいるという環境自体が、結構、クラい。鎌倉の禅寺に修行に行って、何も成果を得られず、踏んだり蹴ったりで東京へ帰ってきても相変わらずの、崖下暮らし。漱石の作品の中でも「超・暗い」作品ではなからうか。
人生とはこんなもの
★★★★☆
「門」は「三四郎」、「それから」に続いて明治43年に朝日新聞に連載された。明治42年の伊藤朝鮮統監暗殺事件が、主人公である宗助・御米の夫婦の会話に出てくることから、背景となる時代がわかる。宗助夫婦はまだ江戸の名残りを留めている東京の片隅の貸家に肩を寄せるようにひっそりと暮らしている。役所に勤めているが、暮らしは楽ではない。そのうえ夫婦には友人を裏切って結婚したという過去があり、これがいつもトラウマになっている。
漱石の享年を遥かに越えた今、「門」を読み返してみると、宗助の優柔不断さが実感をもって共感できる。抜本的な対応ができず時が解決するのを待つ。人生とは多かれ少なかれこんなものだろう。座禅を組んでも簡単には悟りは得られない。宗助はきっと「こころ」の先生のような悲劇的なことにはならず、御米と労わりあって人生を全うするだろう、と期待する。
本書には柄谷行人氏の丁寧な解説(昭和53年)がついている。
その中で、宗助の日常を「かつて激しい学生運動をやっていた者が中年のサラリーマンとなって感じる感慨と類似する」というが、さてどうだろうか?
「それから」のそれから
★★★★☆
前期三部作の最終作で、「それから」の"それから"を描いたもの。「宗助=代助」、「お米=三千代」の関係を明示してまでも大きなテーマの一環として本作を描いた漱石の意図が窺える。女中の名前が"お清"なのも偶然ではあるまい。
「義理を取るか女を取るか」の煩悶の末、女を取った代助の分身宗助は腑抜け状態になっている。お米は子供を授かれない身と言う天罰を背負っている。この勧善懲悪的な設定と、夫婦が肉欲的な愛情ではなく、むしろ友情によって結ばれている所に漱石の男女観を見る。二人の心理状態を季節の移ろいに託して巧みに描いている点も見逃せない。また、物語が純粋心理劇でありながら、巧みな構成で読者の気を逸らさない点は流石である。最後に宗助は宗教の「門」を叩いて救いを求めるが、勿論そう簡単に救いが得られる訳がない。宗助が「門」に対して考察する様は、カフカの「掟の門」を思わせる。この"救い"という観念は、その後の漱石の重要なテーマになる。
漱石が門人に辞典を適当に開かせて、たまたまその頁に載っていた「門」を題名にした本作。その題名に向かって素晴らしい構成で、前作の"それから"の有様と今後のテーマを打ち出した前期三部作を締め括る名作。