His answers were rote, of course.
★★★★★
NHKのテレビ番組でJブンガクというものがあります。
2010年の6月に道草を紹介していたので読み直しました。
彼の返事は無論器械的であった。
けれども彼女はそんな事には一向頓着しなかった。
というくだりを
His answers were rote, of course.
This didn't seem to borther her a bit, however.
と訳していました。
へー,そういう意味なんだと
道草の中身と英語の勉強になりました。
英語にしてみると道草の良さと日本語の良さを再認識できることが分かりました。
漱石の作品中,
★★★★★
最も好きなものかもしれない。
このような濃厚な家族関係,人間関係が
東京では消滅してしまったことと,
日本,その文化の衰退の軌を一にしていると
思われる。
夏目の本質
★★★★★
夏目漱石と一緒に焼肉に行きたくない。
注文するにしても、焼くにしても、食べるにしても、こと細かに規律を設けそうだ。
こちらが越権行為をしようものなら、口頭でこちらを責めることはなくても、
心の中で軽蔑の念を抱かれていそうで怖い。
夏目漱石と口論など、絶対にしたくはない。
圧倒的な論理力ではがいじめにされた後、再び順を追いながら、
こちらの非が明確になるまで徹底的に諭されそうで怖い。
ロジカルに特化した彼の頭脳はしかし、新種の論理の出現には、えてして弱い。
自我の意識に目覚めながらもそれに振り回されるのは、自身に軸を見出せないからだ。
繊細で、丁寧で、やさしく、プライドが強く、揺れ動き、飲まれ、悲しい。
自分の弱さから、逃れることができない。そして、弱さを背負う強さがない。
この「道草」という作品を読めば、夏目漱石の本質を目の当たりにする。
私はそんな夏目漱石と、二人だけで酒を飲みにいきたい。
串カツなんかを食べながら。二度漬けはだめですよ、なんて言いながら。
道草の現代的意義
★★★★☆
漱石最後から2番目の作品に当る。「こころ」に続く長編。
大学教師の健三の周辺人物の殆どが経済問題で主人公を悩ませるという設定は、知識人の苦悩を自伝的に漱石が描いたと言われる所以であろう。
官吏、教師などの他には、大家や質屋などの資産家位しか経済力がなかった時代とはいえ、主人公にとって養子縁組や個人的念書が幅を利かせる時代的背景は、現代から回顧してみれば想像外に不条理なものに見えてくる。
養父だった島田は15年前に縁が切れている筈なのに、いろいろな代理人が健三の下に立ち代わり現れてくるが 最後には無事片付く。更に姉、兄、妻お住みの父までが主人公にまつわりついてくる。はじめから終わりまで、執筆業で現金収入を得ては いくばくかの金を与え続けなければならない姿に、現代人の苦悩を見て取ると読解すべきものなのだろうか。
しかし、産業インフラが整備され、製造文化が発達・爛熟し、年金制度が整備されている現代シニアの目を通して見ると、苦悩の構図は自ずと異なったもの(不自然で現実離れしたもの)となってくる。
健三に少し余裕ができた時に紫檀の机、掛け額、花瓶などを買い求めリフレッシュするシーン以外には、趣味を楽しむこともなく 娯楽ともまるで縁が無いという展開には、身辺の環境ひいては生活のゆとりの差を先ず感じてしまう。
総じて 見合結婚が主流の時代にあって、子育てと夫婦関係を率直に描いているところに、漱石の透徹した思考を感じた次第である。
あまりにもリアル
★★★★★
心理描写があまりにもリアルで、まるで自分の心の中を書かれているかのような気分になるところもありました。いまさら言うまでもありませんが漱石という人の並々ならぬ心理描写能力に空恐ろしくなります。人はこのようにお互い自らのことも思うに任せず、それでもなんとかやっていくのでしょう。もちろん、ここに書かれていることが漱石のすべてでもなく、またまったくの創作というのでもないと思います。すべての人が、一面では捉えきれないように。
私は漱石の人となりをほとんど知らないのですが、この小説を読んで「坊ちゃん」における漱石の自伝的側面は非常に小さいのではないかと思いました。松山にいたことは確かでしょうが、あのような「痛快」というような言葉で表わされるような人物ではなかったということを、自ら「道草」において告白しているのではないでしょうか。どちらかというと、過去の嫌な思い出を想像で補償しようとした無様な試みのように思えます。あまりにも卓越した文章能力のせいで、不幸にもその試みが成功してしまっているのですが...。