30年ぶり,まだ2度目の「明暗」です。
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「門」の次に,ほぼ30年ぶりに「明暗」を読み始めた。
やはり,漱石の世界に引き込まれる。
水村美苗氏の「続明暗」を読む前に
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いうまでもなく漱石最期の未完の小説である。大正5年に朝日新聞に掲載されて漱石の死とともに終わった。そして我が敬愛する評論家、江藤淳の「漱石とその時代」も「明暗」を取り上げる前に自裁して未完に終わった。
漱石の著作をすべて読んでから「明暗」を最後に読もうと決心していたが、水村美苗氏の「続明暗」を知り、それを読むために禁を犯して漱石の「明暗」を読むことにした。
「明暗」は未完であるにも関わらず、かなり長く、登場人物も多く人間関係も複雑である。そして人物の登場の仕方も実に自然で巧みに演出されている。例えば、重要な人物である清子はかなり後になってさり気なく登場する。複雑な人間関係を理解するためには家系図のような図式化も必要となるほどである。小説技術としては将に円熟の境地なのではないか。
物語は津田とその妻、お延そして遅れて登場する清子を中心に進む。津田は他の漱石の小説に登場する高等遊民的な人物であるが、お延、清子そしてお秀、吉川夫人等々、極めて個性的な女性像として描かれる。この辺り、漱石の小説もそれまでのものと雰囲気がかなり異なり、大正時代の思想の影響を強く受けている印象がある。
この小説は未完であり、この先どう進むのか興味深い。さて、これから水村美苗氏の「続明暗」を読み始めることにしようか。
余分なことながら。
この文庫には極めて詳細な注解が付いている。これは有り難いのであるが、ごくありふれた語句にも辞書のような注解がある。なにか特別な意味があるのかと確認することになるので煩わしい。中高生が読むのであっても辞書を用意すればすむことである。本当に必要な語句に注釈は限った方がよいと思う。
未完の小説ゆえの魅力
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小説冒頭、いきなり主人公の「痔」の診察場面からという導入(漱石自身も体験者)もすごいが、本書は読んでいてまったく古さを感じさせない。
ただし、新潮文庫の裏表紙の「あらすじ」は、後半のストーリー展開のネタばれで、これは書きすぎでしょう。
おまけに、巻末注がたくさんついているのはいいが、明らかに高校生レベルを意識したと思われるような注には、ちょっとしらける。
私の印象に残ったシーンは、津田が、昔の別れた彼女を伊豆の温泉にたずねる中で、夜の迷路のような湯治場旅館の廊下でひとり行き先に迷うシーンである。
まるでサスペンス映画を見ているようような戦慄を覚えた。
「明暗」は漱石の遺作であり未完の小説だが、ドストエフスキーの未完の遺作「カラマーゾフの兄弟」をほうふつとさせるシーンが出てくるのには驚いた。
経済的に困窮する小林が、津田から朝鮮行き(都落ち?)の餞別をもらうシーンである。いったん津田からお金は受け取るものの、津田の目の前で、自分よりさらに苦しい貧乏画家にそのお金を分け与えるのである。自分は貧しても、高い志は持っているということの表明だ。
カラマーゾフでは、カラマーゾフの兄に辱められた退役大尉スネギリョフが、カラマーゾフの末弟アリョーシャからの見舞金をいったんは受け取るものの、こんなものもらえるかとばかりに、ルーブル紙幣をくしゃくしゃにして投げ捨てる。
「明暗」の中でも、小林は「ドストエブスキー」を称賛しており、ドストエフスキーの小説は漱石に作品になんらかの影を投げかけたものと思われる。
処女作の「猫」から小市民的世界(あるいは高等遊民)を中心に描いてきた漱石だが、「明暗」においては、社会や同時代との軋轢がようやく垣間見える作風へと変わりつつあった。
あと二十年、漱石が存命していたら、私小説的な「明暗」が、個人と社会との葛藤をめぐる一大物語世界へと展開していたかもしれない、などと想像をめぐらすことは楽しい。
漱石には珍しく女が活きている作品
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漱石の作品には謎めいて何を考えているか良く解らない女性が登場することが多いが、
この作品では、まあ女がよく喋る、火花を散らして戦う、技巧を巡らせ合う。
その描写も勢いがあり、ドラマティックな展開で一気に読んでしまう。
未完なので「この後どうなるんだろう」と様々な想像が膨らむが、
「その後」を描いた水村美苗氏の「続明暗」がこれまた傑作!
少し自分で思いを巡らせた後に水村氏の作品を読むと更に楽しめること請け合い。
書かれたことよりも書かれえなかったもののほうがより想像力を掻き立てられることは本当である。
★★★★☆
漱石は最後の未完の小説で近代人の俗物心理を、まるで動物たちを観察する視線で眺めた(『吾輩は猫である』の猫のように)。それが徹底的で、執拗であった。こうした近代の俗物性を克明に表現することによって漱石は何を意図したのだろうか? 日本人の西洋化してゆく姿のおぞましさを暴いたという人もいる。その姿はわれわれ現代人とはたして違っているだろうか。主人公の津田、その妻のお延、津田の妹お秀、津田の友人小林、津田とお延の仲人たる吉川夫人、お延の叔父たちなど強烈な個性が放つ明治時代の俗物の徹底した心理の描写を通して、漱石は、自己の空虚さ、つまり他の思惑によって動く自己の思惑がさらに他の思惑を動かすというゲームに没頭する自己中心性の無さというものを暴き出した。常に自己という存在は他者との差異、関係の結果でしかありえない。
ここには再生があるのだろうか? あるいは漱石はその再生を描こうとしたのだろうか? それとも劇的な死が待ち受けているのだろう? 未完となった本書の謎は謎を誘う。それぞれの心を弄びながらしかも弄ばれる悲喜劇の登場人物たちは果たしていかなる運命を背負うのだろうか?
一抹の希望は清子の存在だ。いや希望と言えるのかどうか、清子はひょっとして近代人を逃れる素質を託された女性かもしれない。お延やお秀や吉川夫人などとはやや趣の異なる性格をもったこの清子という存在は、物語の行方を大きく左右したかもしれない。