インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

空海の風景〈下〉 (中公文庫)

価格: ¥780
カテゴリ: 文庫
ブランド: 中央公論社
Amazon.co.jpで確認
日本に帰ってきてからの活動 ★★★★☆
 あくまでも聖人ではなく、人間「空海」を描いている。中国から日本に帰ってきてからの空海の行動。比叡山の最澄の嫉妬にも似た、経典の不足分を頭を下げて、空海に求めていくシーン。人間の模様が描かれており、決して空海さんも聖人ではなく、少し意地悪な面も見せつつある。中国における状況もいかにして早く日本に帰るかを模索する等、古人も現代人も変わらぬ、人生設計、時間感覚があり、高野山を作り上げていく様子も物語として十分に語られている。
空海とはどんな人であったのか… ★★★★☆
空海とはどんな人であったのか…ロマンがあります。
はじめ上巻を読ませていただいたとき、司馬遼太郎は空海に対して
少々手厳しいのではないかという印象を受けた。
それもそのはずであった。あとがきにもあるように、著者ははじめ、
空海が嫌い(と言えば語弊があるが)だったようである。

空海に限らず、古代の人物は確かに謎が多い。それだけに伝説を生み、
神格化され、歴史的事実とは異なる様相が一人歩きしてしまう。
しかし空海においては、その著作の多さからも、
実像には迫りやすいのではないか?
それでも、本書においてはそれを「風景」と称せざるを得ないほどに、
多分に著者の空想が吐露されるのであるが…。

味わいはテレビ版であるNHKの「空海の風景」とは別物である。
NHKのものは、本書より特に空海の特定の事象にスポットライトを
当てざるを得ないために、本書のような味わい深さはない。

この夏の初め、東寺に初めて行った。ここに空海がいたのかと思うと、
時の流れと言うものは誠に不思議で感慨深いと思わざるを得ない。

本書は敢えて仏教の専門用語を使わずに執筆されている。そのため
敷居は随分と低く設定されている。

空海の本当の実像を知ることは出来ない。それはまるで地平線の
彼方に揺らめく蜃気楼のようなものである。
それを「風景」と称している。妙なる命名であると感心した。
空海そのものより空海を取り巻く風景、特に最澄らを描いた歴史考察 ★★★★☆
空海をとりまく人物や歴史の背景を丁寧に追って、そこから空海の心情を推察した書。小説とは言い難く、会話らしいものもほとんどありません。空海を当時の他の仏教をはるかに凌ぐ真言密教を確立したと繰り返し述べながら、真言密教の内容に関してはほとんど触れられていません。この本の中で、最澄が空海に、密教は本を読むだけでは学べるものではないと言っていますが、この空海の風景を読んでも密教の真髄はわかりません。理趣経をはじめとする真言宗の経典や空海自身の書を熟読していることが明らかな作者が、肝心の空海自身あるいは密教自体に関しては、核心に触れようとしないように感じられるのは、読者に対して司馬遼太郎が、密教は本を読んだだけではわかりませんよと言っているかのようでもあります。空海の生の声の密教論としては、最澄に対して宛てた手紙の中で、“大日如来の三密はお前自身の三密である無我の大我に理趣(条理)を求めるべきで、他に求めるべきではない”とこの本の後半でほんのわずかに紹介されています。時代背景や人物、関連書物、寺院の紹介はされており、この本から人それぞれ多様な方向に興味が広がる本です。
人間臭い「空海」を再現した著者渾身の1冊です ★★★★★
巻末の解説で大岡信氏が「司馬氏以外の誰が、このような著作にトライし、物にできるか」的なことを書かれているように、まさに、著者渾身の1冊といえる本。
上巻同様、空海の残した著作等、それ以後の時代小説に比して、数少ない手がかりから、最大限の創造力を動員し、空海その人はもとより、最澄を始めとする同時代の人々、宮廷・奈良宗教等、時代の雰囲気を再現しようとする試みに付き合うことは、刺激があって、本当に面白いものでした。ただ、著者の信条からでしょうが、内容は、最澄との確執等、「空海」としての人間臭い部分が中心で、「弘法大師」としての数々の奇跡や密教の中味については、ほぼ触れられていません。
著者の空想力の産物であることを念頭に置きつつ、「空海」への足ががかりとしても適した1冊ではないでしょうか。

”超人”と”人間”のあいだに… ★★★★★
「空海はあるいは、言葉に出して、――朝廷も国家もくだらない。といったかも知れない。」

かつて在阪の頃、空海ゆかりの場所を数多くたずねた。東寺、神護寺(高尾山寺)、施福寺(槇尾山寺)、東大寺、大安寺…特に意識しなくても、前記のような史実と思しき場所から伝承・伝説の類まで、近畿(この場合、“関西”より“近畿”がふさわしかろう)を歩けば、どこでも空海の足跡にすぐ行き当たる。それほどに空海は“遍在”している。それは冒頭の言葉に代表される、空海の人智を超えるような思想的巨大さの表れとも思える。

 前期の期間、行きたいと思いつつ遂にそれを果たせなかった場所が、高野山だった。その高野山の壮大な伽藍を、司馬氏は「若き日に滞在した長安の街を再現したかったのではないか」と“夢想”する。

「空海は帰国後、淋しかったのではないか」

 その余りの巨大な知ゆえに、当時“文化の果てるところ”の辺境だったこの国において、空海は孤独だったのではないか…司馬氏が描く“空海(の風景)”の魅力は、その壮大さと同時に、“超人”にもなお、人間としての“弱さ”を透視しようとする著者の視線にある。

 本書を読んで、必ずいつか高野山を訪れたい、という思いが、改めて強くなった。