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歴史とはなにか (文春新書)

価格: ¥725
カテゴリ: 新書
ブランド: 文藝春秋
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 「新しい歴史教科書をつくる会」が編纂した中学教科書に、中国と韓国が強く反発している。今に始まったことではない。これまでにも、日本の閣僚が中国から「正しい歴史認識の欠如」を非難されて辞任に追い込まれることもあった。しかし、中・韓両国の主張、日本政府の対応、マスコミの論評を聞いていて、いつも覚えるのは、「正しい歴史認識」とはいったい何なのかが、一向に見えない欲求不満である。肝心なのは、歴史認識や史実解釈ではなく、「歴史とはなにか」ではないのか。そんな基本的な疑問に、丹念に答えてくれるのが本書である。

   著者によれば、歴史は自分の立場を正当化する「武器」だそうである。国の歴史(正史)には、本来そういう側面がある。「歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ『これが歴史だ』というものができる」が、それは「ちゃんとした歴史」ではない。「いい歴史」を書こうと思ったら、「善とか悪とかいう道徳的な価値判断」「功利的な価値判断」は一切禁物である。しかし、そうした価値判断を排して書かれた「いい歴史」は「どの国家にとってもつごうの悪い」ものにならざるをえない。

   そこで思い出すのは、2000年度のノーベル文学賞を受賞した中国人亡命作家、高行健(ガオ シンジアン)が「中国の正史」を批判した言葉である。高は「歴史とは、イデオロギーを通してではなく、じかに対面すべきものである」と言った。本書は、世界文明上の歴史観を、司馬遷の「現実とかけはなれた『正統』の歴史観」(中国文明)とヘロドトスの「変化を語る歴史観」(地中海文明)の2つに分けている。どうやら、高が「イデオロギーに基づく正史」と批判する中国の歴史記述は中国の伝統なのである。それが「いい歴史」かどうかは別にして、それぞれの国が自分の歴史をどう記述しようが、他国がとやかくいう筋合のものではないかもしれない。

   しかし、求められるのはやはり「いい歴史」である。だが、「いい歴史」は必ずしも万人を喜ばせるものではない、と本書は言う。胸のつかえの下りる本である。(伊藤延司)

歴史は物語や文学ではない ★★☆☆☆
「歴史は物語であり文学である。歴史は科学ではない。」(P82)頭に入りやすい文言だけに、これだけはやめてもらいたい。

たとえば、ある村の長(おさ)が、朝起きたら、家に大きな仏が鎮座していて、この村はこれから仏の道を歩めと言った、と村人に告げたとしよう。仏の出現がお告げの証だと言うのだ。

しかし、ある賢い青年が、長の家の周りを調べたら、たくさんの足跡が見つかった。これはおかしいではないかと問い詰めたら、長も、実はウソなんだと認めた。

こういう場合、歴史が物語や文学なら、長の作り話もOKのはずである。しかし、そういうものが歴史だとは、誰も思わないだろう。たくさんの足跡を証拠として採用しないものは、歴史だとは思うまい。私たちが必要としている歴史のイメージに合わないのだ。

「歴史は物語や文学ではない」のである。物語や文学に事実が必要だと思う人はいないが、歴史には事実が必要だと、人は思うだろう。これは明確な区分である。

著者の表明の仕方では、「歴史には事実は必要ない」と、読み替えが起きる怖れがある。
“よりよい歴史”づくりのため既成の歴史観を根底斬り ★★★★★
 「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営み」と始め、歴史家は「普遍的な個人の立場」から豊かな人格・個性で「歴史的真実」目指し「一貫した論理で」「よりよい歴史」を描く、と結びます。本論はその実体たらんとする著者が、主たる既成の未熟な歴史観をその全体に及んで根底から斬ります:1)日本文明は七世紀に中国文明から独立し誕生(これから神武天皇に遡る歴代天皇は神話で“悪い歴史”)、日本書紀が産んだ独自の万世一系の正統天皇思想と、鎖国・反中国のアイデンティティをもち、その中国正統史観に対するもう一方の大潮流・西欧変転史観を明治維新時に丸呑みして歴史認識混乱;2)「国民国家」の起りは王の財産の市民所有化闘争で、十八世紀末の米独立・仏革命に現われ(僅か二百年余り前から。従ってこれ以前の歴史を国家や国民の枠組みで叙述するのは時代錯誤)、軍事的強力さを背景に拡大、大規模戦争の勃発とともに同政治形態が世界史の現代を特徴化したが、今日終焉傾向。この歴史の国境撤廃傾向も興味深いが、善悪の道徳的判断と功利的価値判断を始め、従来の人為の錯覚による“悪い歴史”認識排除を強調する余り、世界を“無数の偶発事件の積み重ね”のように人間本性無視の無機的描写に収斂させ論ずるのには閉口。神前平等と民主主義の生活・社会的価値観全否定は論議を呼ばざるを得ないでしょう。それでも3)分家と看做していた日本に日清戦争で敗北した後、日本型「国民国家」目指した現代中国、またその思想ゆえのチベット・内モンゴル・新彊ウイグルの各自治区人権侵害、の説明にも論理一貫。また、粘り強く本質を追究する“よりよい歴史”づくりの不断の努力が、最終的には人類各人の相互理解の土台を築いてゆく、との趣旨も希望的。
内容は面白いが、編集が雑 ★★★☆☆
歴史とは元々存在するものではなく、作られるもの(書かれるもの)であるという主張を根底に、我々が持っている史観というものを覆すような中身で、他のレビューにあるようにそれは非常に面白いのですが。
個人的には非常に読みにくい本でした。
漢語や聖書の難しい言葉が羅列されたかと思うと、普通の文章がひらがなばかり(例:ひじょうにむずかしい、いちばんだいじな)で記述されていたりと、あるいは同じ内容の文章が繰り返されたりと編集と校正が非常に雑です。非常に慌てて本にしてしまったという印象です。
解説や前書き、後書きがないのではっきり分かりませんが、これは著者の講演を文章化したものか、あるいは編集者が著者の口述筆記を行って、適当に編集したのか、そんな感じです。
せっかく、モンゴルやチベット問題を抱える中国の“中華思想”の歴史や、日本と米国の歴史というもののとらえ方の違いなど、興味を引く内容ばかり書かれているのに、減点材料が多いです。
内容は★5つ、編集★1つです。
歴史とは歴史観に規定されている ★★★★★
著者の創意あふれた記述に満ちており、歴史に関心あれば興味深々の本だと思う。

私が特におもしろかったところとしては、

○歴史とは、過去の出来事をそのまま書けば良いのでなく、歴史観がなければ歴史は生まれてこないというのは今まで見たことのない卓見だと思う。また、これまで中国史観と地中海文明史観の二つしかないと喝破されている。

○国民国家は戦争のために作られたもの。また、現代は、国民国家という視点から歴史を組み立てている。

○史料は、その作者の好みで整理され、記録され、目的を持っている。良い歴史とは、史料のあらゆる情報を一貫した論理で解釈できるもの。歴史はそれを書く歴史家の人格の産物。(主流派からほど遠そうな著者がこのように述べる背景を考えると面白い。ただ、阿部謹也の自伝などを読むと、歴史家と歴史は不可分だと思う。)

○歴史の役割は、何もないところに筋道を与えてわかりやすくするというところにある。

○中国(過去・現在を通しての漢民族等の領域)の名称変化
 秦→チン→チーナ(インド)→支那(仏典)→清・中国(漢人・満州人)

○清は同君連合(満州人・漢人・モンゴル人・チベット人)。それが中華民国は国民国家を目指した。

やはり歴史は難しい ★★★★★
学校で「世界史の臨界(西谷修)」をやったのでついでに読んでみた。

多くの人は「歴史=過去の事実」と思っているのだろう。
しかし、歴史というのは編纂者によって都合のいい事例のみを取り上げたもので、決して客観的なものではない。
歴史解釈も都合よく行われるもの。

そうした視点から歴史を見て、さまざまな具体例を挙げ、私達の常識をひっくり返す。


ただ、「世界史の臨界」もそうだが、歴史の成立条件に「文字」を置くことについては、私は賛成しない。
そう思ったら「ラディカル・オーラル・ヒストリ(保苅実)もあわせて読んでみて欲しい。